の柄に青貝の鋳《い》り込んでいる、女持ちの小形なピストルを取り出した。そのピストルは少し前に、不吉な猫を殺す手段として、用意して買った物であったが、今こそ始めて、これを役立てる決行の機会が来たのである。
 彼女は曳金《ひきがね》に手をあてて、じっと床の上の猫を覗《うかが》った。もし発火されたならば、この久しい時日の間、彼女を苦しめた原因は、煙と共に地上から消失してしまうわけである。彼女はそれを心に感じ、安楽な落付いた気分になった。そして狙《ねら》いを定め、指で曳金《ひきがね》を強く引いた。
 轟然《ごうぜん》たる発火と共に、煙が室内いっぱいに立ちこもった。だが煙の散ってしまった後では、何事の異状もなかったように、最初からの同じ位地に、同じ黒猫が坐っていた。彼は蜆《しじみ》のような黒い瞳《め》をして、いつものようにじっ[#「じっ」に傍点]と夫人を見つめていた。夫人は再度|拳銃《けんじゅう》を取りあげた。そして前よりももっと[#「もっと」に傍点]近く、すぐ猫の頭の上で発砲した。だが煙の散った後では、依然たる猫の姿が、前と同じように坐っていた。その執拗な印象は、夫人を耐えがたく狂気にした。どんなにしても彼女は、この執拗な黒猫を殺してしまい、存在を抹殺《まっさつ》しなければならないのだ。
「猫が死ぬか自分が死ぬかだ!」
 夫人は絶望的になって考えた。そして憎悪の激情《パッション》に逆上しながら、自暴自棄になって拳銃を乱発した。三発! 四発! 五発! 六発! そして最後の弾《たま》が尽きた時に、彼女は自分の額《ひたい》のコメカミから、ぬるぬる[#「ぬるぬる」に傍点]として赤いものが、糸のように引いてくるのを知った。同時に眼がくらみ、壁が一度に倒れてくるような感じがした。彼女は裂けるように絶叫した。そして火薬の臭《にお》いの立ちこめている、煙の濛々《もうもう》とした部屋の中で、燃えついた柱のようにばったり[#「ばったり」に傍点]倒れた。その唇《くちびる》からは血がながれ、蒼《あお》ざめた顔の上には、狂気で引き掻《か》かれた髪の毛が乱れていた。(完)

 附記。この物語の主題は、ゼームス教授の心理学書に引例された一実話である。



底本:「猫町 他十七篇」岩波書店、岩波文庫
   1995(平成)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「萩原朔太郎全集」筑摩書房
   1976(昭
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