せに――否解らない故に――やたらむやみに喝采する。いつたい此等の聴衆共は、音楽を味ひにやつてくるのか、音楽会の気分を味ひにくるのか。思ふに大部分は後者だらう。彼等にとつては、あの芸術的厳粛味の気分――今や我等は、世界的名手によつて奏されるベトーベンの偉大なる芸術に接しつつあるといふ類の気分。――が、この上もなく崇高で好いのであらうが、僕にはそれが厭やでたまらぬ。
音楽の芸術的意義は何であらうか。僕にはむつかしいことはわからないが、とにかく、僕等が音楽をきく目的は、美しい旋律や和声からして、快よい陶酔と恍惚とを求めるのだ。決して「芸術的威権の気分」を味ふためではない。然るに音楽会情調といふ奴は、実に芸術の崇高的厳粛性を漂はして、気分的に強制してくるのだ。その為に僕等は悪くかたくなり、へんに重苦しい気分となつてしまつて、少しも音楽的陶酔の快よい境地に浸れない。これは日本の聴衆が、真に「好き」から音楽会に行くのでなく、一種の妙な芸術的意識で、或は文化的虚栄心で、七むづかしい気分を持つて行くからだ。そしてこの悪風潮は、上野音楽学校などの官僚趣味が、一方で少なからず養成したものだ。
人々は音楽に対して、もつと楽なフリーの見解をもつて好いのだ。日本で真に音楽の解つてゐる人々は、あの演奏会に集まるハイカラの青年や淑女でなく、実は市井でハーモニカを吹いてる商店の小僧たちである。日本における西洋音楽の健全な将来は、あの小僧たちの成長した未来にある。もしくは浅草のオペラにあつまる民衆の中にある。彼等だけが、本当に音楽をエンジヨイし、音楽の本質を完全に知つてゐるのだ。文化主義的音楽愛好家などは、時代のキザな流行熱で鹿鳴館時代のハイカラの如く、何の根柢もありはしない。
話が理窟つぽくなつてきたが、とにかくさういふわけで、私は音楽会の気分が厭ひなため、性来音楽好きでありながら、演奏会に行くことは稀れにしかない。音楽がもつと楽に、フリーなゆつたりとした気持ちで聴けたら、どんなに好いだらうと思ふ。だから私の大好きなのは、日比谷公園における公衆音楽会である。あれだけは窮屈な空気がなく、実に民衆的で気持ちがよくきける。そこでラヂオのことを考へたとき、こいつは好いなと思つた。ラヂオの放送音楽なら、イヤな演奏会に行く要もなく、家にゐて寝ころび乍ら聴いてられる。演奏中に酒を飲まうと煙草を吸はうと随意
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング