ラヂオ漫談
萩原朔太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)珈琲店《カフエ》
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 東京に移つてから間もなくの頃である。ある夜本郷の肴町を散歩してゐると、南天堂といふ本屋の隣店の前に、人が黒山のやうにたかつてゐる。へんな形をしたラツパの口から音がきれぎれにもれるのである。
「ははあ! これがラヂオだな。」
と私は直感的に感じた。しかし暫らくきいてゐると、どうしても蓄音機のやうである。しかもこはれた機械でキズだらけのレコードをかけてる時にそつくりで、絶えずガリガリといふ針音、ザラザラといふ雑音が響いてくる。何か琵琶歌のやうなものをやつてるらしいが、唱に雑音がまじつて聴えるといふよりはむしろ雑音の中から歌が聴えるといふ感じである。
 ラヂオといふものを、大変ふしぎなもの、肉声がそのまま伝つてくるものと思つてゐた私は、この不自然な器械的の音声を、どうしてもラヂオとは思へなかつた。それにへんな形をしたラツパといふのも、蓄音機の電気拡声器として、以前から使はれてゐたものである。
「蓄音機だな?」
さう言つて私が連れの方を顧みた時、側にゐた四五人の男女が、いつせいに私を見つめた。その視線には、明らかに「田舎者め!」といふ皮肉な冷笑が浮んでゐた。じつさい田舎者であり東京に出たばかりの私は、ハツとして急にそこを立去つた。

 これが私の始めてラヂオを聞いた時の印象である。尤もその前から、非常な好奇心をもつて「まだ知らぬラヂオ」にあこがれてゐた。一度などは、浅草の何とかいふ珈琲店《カフエ》にラヂオがあるといふので、わざわざ詩人の多田不二君と聴きに行つた。前の南天堂の二階へも、ラヂオをきく目的で紅茶をのみに行つた。しかし運悪くどこでも機械が壊れてゐたり、時間がはづれたりして、いつも空しく帰つてきた。
 いつたい僕は、好奇心の非常に強い男である。何でも新しいもの、珍しいものが発明されたときくと、どうしても見聞せずには居られない性分だ。だから発声活動写真とか、立体活動写真などといふものがやつてくると、いちばん先に見物に行く。ジヤヅバンドの楽隊なども、文壇でいちばん先にかつぎ出したのは僕だらう。今の詩壇でも、たいていの新しい様式を暗示する先駆者は僕であり、それが新人の間で色々に発展して行く。
 話が余事に亘つたが、この新奇好き、発明好きの性分は、室生犀星君など
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