事業も何もかもさうである。その内には良訳もあれば誤訳もある。文芸の翻訳の気分訳もあれば逐字訳もあらう。飛行機の墜落とか、電車電灯の停電なんていふものは恐らく誤訳から来たものであらう。然らずんば拙訳の致す処であらう。私は三越に行く度《たび》に、なるほど西洋のデパートメント・ストアを翻訳したら、恁《こ》うなるのだなと感心する。恐らくこれ等はうまく翻訳したものであらう。これに反して須田町《すだちやう》に立つて居る銅像は確かに誤訳である。而もあれは逐字訳の方の誤訳であらう。恐らくこれほどイギリスの原文を一字一句、そのまゝに訳して醜悪を曝《あらは》したものはあるまい。須田町と言へば、これも嘗《か》つて私の言つた処であるが、その場処そのものが誤訳である。両国でも、この筋違でも、旧来の広場をつぶして、新らしい広場の誤訳をもツて来たものである。これ等は顕著なものであるが、今日の吾が社会に無数にあるいやな事、間違つた事の多くは、この誤訳から来て居るのであるまいか。
 日本の事が一切翻訳であるとすれば、この国が古今東西無比の文学翻訳国であるのもまた怪むに足りない。翻訳製造株式会社の出来るのも当然な事である
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