。併し翻訳といふものゝ目的とする処は、一体何処であるのであらう。さういふやかましい事は、私には解らないが、兎《と》に角《かく》自国以外の者が、どういふ事を考へて居るか、外国ではどういふものゝ見方をして居るか、どういふ風にものを感ずるか等の事を、作物によつて知り、それによつて自分の考を豊富にし、自分の考へ方、もの事の見方、感じ方を整へるのである。結局それは自分のためにするものである事は言ふまでもない、果してさうであるとすれば、その翻訳の仕方も自から定まつて来る筈《はず》である。それはこゝに私がぐづぐづ説く必要もあるまい。然るに若《も》し其処《そこ》に誤訳といふものがあれば若《もし》くは拙訳といふものがあれば、それは全くその目的を達し得ないのみならず、それが有害なものになる。さういふものは、むしろ無い方が良い。何となれば丁度須田町の銅像が醜を曝《さら》すやうに電車、電灯が、人を困らすやうに、間違つた考へ方や間違つた見方感じ方を伝へては、世を毒する事になるからである。よしそれほどでなくても悪い翻訳は、その原作に対する人の考をあやまらすものである。私一個としてもさういふ経験がある。その一例をあ
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