りにやつてしまふのである。少々は文の筋が通らなくても、話の関係が変でもそんな事には頓着しないやり方である。それは則ち気分に依つて訳すので、これを称して気分訳とか云ふさうである。その例は私があげるまでもあるまい、随分沢山にあつてすでに読者の十分に承知して居られる処であると思ふ。今一つの方式はそれとは反対の、逐字訳である、一語一句も忽かにせず、原文の通りに訳するのである、さうして出来上つたものは、通例何が書いてあるか一向に解らない、解らない筈である、訳者その人にも解つては居ないのであるから、併し翻訳としてまことに忠実なもので、これ以上は望み難いのである。例をあげると面白いのであるが、前の方式のにしてもこの方式のにしても、うつかり書いて叱られるといけないから、かけかまひのない処を云つて見るが、或る処でグロオワアムと言ふ字を蠅《はい》に似た虫で夜後尾の方が光るものだと、先生が言つたら、生徒の一人が、先生それは蛍ではありませんかと言つたといふ話があるが、第二の式の翻訳はこの呼吸で行くのである。ヰイク・デイスなら週間の日、インゼ・ロング・ランなら長い走りの内にと言つた具合に行くのである。この両式は
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