は老人の言であるが――現筆者も老人であるが――それは全く事理を弁《わきま》へぬ言である。一体私は翻訳不可能論者である、真実の意味に於て翻訳は出来ないものと心得て居る。それ故《ゆえ》新潮社の翻訳は定評があるとか、杜撰《づさん》なものであるとか、そんな評判はよく聞く処であるが、私は少しもそれに耳をかさない。何となればどうせ出来ない翻訳であるから、それが良くても、悪くても結局は五十歩百歩であるからである。もつとも物事の相違は五十歩百歩といふ処が大事なので、低気圧と高気圧との差は比較的僅少だし、体温は三十七度なら平温だけれども、それを三度越した四十度は大熱であるのだから、況んや五十歩百歩は大変な相違にちがひないが、それは場合に依る事で、何事も一律には行かない、零に対しては一だつて無限大であるから、不可能に対しては如何なる誤謬《ごびう》も誤訳も顧るに足らないのである。
私の考へる処に依ると翻訳には二種類ある。第一は原文に拘泥せず、ドシ/\と自分勝手に訳してしまふのである。原文で左とあるのを右と訳しても良い、然《しか》りと書いてあるのを否《いな》と訳してもかまはない、何でもかまはず、勝手に思ふ通
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