国の文学の流れ込んだ事実はないのであるから、或はその為めに人心は食傷しはしないかと、気づかはれるのも一応はもつともである。併《しか》し私に云はせればそれは杞憂である。買ふ人必らずしも読むのではないし、また読んだ処《ところ》で斯《か》うして出来た翻訳は容易に解りつこいないからである。解つては翻訳ではない。解らない処に翻訳の価値があるのである。実に不思議な事であるが、日本では翻訳と云ふと解らないものになつて居る。これは嘗《かつ》て私の説いた処であるが、西洋の諸国では翻訳といふと読み易い解り易いものになつて居る。それは成句や慣用語が説明的になるし、文体も感情的でなくなり、概して理智的説明的になるからである。然るに用語文体の組織が全然相違するためでもあるが、日本では翻訳が全く不可解になる、不可解は翻訳の主なる資格である。そんなわけであるから、それほど翻訳が沢山に出ても、それがために人の心が動かされるとか、在来の思想が乱れるといふやうな事は決してない、そんな事を心配するのは全く杞憂に過ぎない。
 従つて近時の翻訳は粗雑であるとか、乱暴であるとかいふのも筋の通らない論である、えて左様《さう》いふ事
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