道學先生の旅
戸川秋骨
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若い學生――斷つて置くが、男生女生兩方の學生である――を引率してといふ處だが、むしろ若い學生達に引率されての旅であつた。事實N夫人と私とは晝の辨當を用意して來なかつたので、學生連中の携帶したものからその何割づつかを分けて貰つて、やうやくそれに有りついたといふ事實をもつても解る。山中の一停車場で上りの汽車と竝んで停車したら、丁度その上りの車中に若い女學生の修學旅行らしいのが居て、此方を見て、微笑をしては、互に何か言ひ合つて居る。此方の連中も同樣である。竝んでの停車は僅かに二三分時で互に發車したが、その時先方は笑つて輕く會釋して行つた。此方の連中も同樣にした。私はそれが非常に嬉しかつた。この旅程の中の壓卷だと思つた。事實はそれほどの事でなかつたかも知れないが、私はステイヴンスンの旅行記にある一節を思ひ出したからである。一寸その個處を引用して見る。
「オルニイの若い美人達は私達の出立の際に來て居た。私達は歡呼された、若い男女は岸の土堤の上を私共について走つて來た。私達は燕のやうに河を下つて行つた。娘達は裾をからげ、素足を見せ、息を切らして走つて來た。最後までついて來たのは三人の美人とその他二人であつた。が、それ等も弱つた時、先頭に進んで居た三人の内の一人が、木の切り株の上にのつて、船の私達に向つて、自分の手をキスして送つた。デイヤナの神と雖も、――むしろヴイナスらしい處の方が多くはあつたが――こんな優しい素振りを、これほど優しくして見せる事は出來なかつたであらう。その美人は言つた、「また歸つて入らつしやいネ」と、すると一同も聲を揃へて同じ事を言つた、オルニイのまはりの小丘もみな「歸つて入らつしやいネ」といふ言葉を反響した。併し河は目ばたきをする間に角を曲つてしまつた。そして私達はただ緑の樹木と走る水と共にあるのみであつた。
「また歸つて入らつしやいネ」とや、若き婦人達よ、人の世の早瀬には歸つて來ることはない。
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「あき人は船乘の星にぬかづき
農夫は太陽に依つて季節を知る」
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吾れ等はみな自分の懷中時計を、運命の時計に依つて定めなければならぬ。勢猛く進む瀬は、一片の藁のやうに、人をその空想と共に伴ひ去り、時間と空間との内に疾く走り行く。人の世の瀬には、オアズのこの曲折して行く河のやうに、數多の曲線があり、樂しい田園の内にさすらひまた戻つて來る。而もよく考へて見れば決して戻つて來る事はない。よし流れは同じ時刻に、牧場の同じ場所に再び來るとするも、前とその時との間には大きな變りがある。數多の細流は流れ込んだであらう。數多の蒸發は太陽の方に登つた。そして場所は同じとしても、それは同じオアズの流れではあるまい。左ればオルニイの美人達よ、私の一生の、さすらふ宿命は、再び私を導いて、あなた方が河の邊りで死の呼び笛を待て居る處に歸つて來たとしても、その時町を歩む私はもとの私ではあるまい、そしてその時の夫人となつて居る人、母となつて居る人も、果してあなた方であるだらうか。」
私共は大月驛から自動車で目指す河口湖畔へ向つた。自動車は猛烈な、亂暴な奴で、抛り出されさうである。顛覆しさうでもある。一臺はパンクした。私達の乘つて居るのは、ガソリンがなくなつて運轉不能になつた。同乘したN夫人はまだ日本の間に合せの文化になれない人だから、定めし驚いた事であらうと察しられる。併し左に右に、また正面に、いつも行手にあたつて、富士がその堂々たる姿を見せて居た事は、私共に取つてさへ快い事であつたから、此外來の方には興のない事でもなかつたらう。私共は湖畔についた、鹿爪らしくも何々ホテルといふ名の家についた。うしろは富士、前には湖畔の山々、目の下には湖水と鎔岩、素より快い天地である。話は東西の旅の事、風景の事に及んだ。N夫人の居られるので、イギリスの湖水地方の話は當然出る。柏亭氏はこれは殆んどイギリス湖水地方の風景と同じだと云つて、ダアエント・ヲオタアを見物した曾遊の話をした。N夫人もグラスミヤや、ライダルの話をした。やがてN氏も後れて來著し、話はいよいよイギリスの風景の事ばかりになつた。私は嘗て沙翁の芝居見物のために、二年間イギリスに留學を命ずなんて、辭令をくれる特別な學校はないものかナア、と嘆息した事もあつたが、今又イギリス湖水地方、特にヰンダアミヤ附近、ダアエント、グラスミヤ等に遊んで來る事を命ず、なんていふやうな命令を出してくれる、學校でも、人物でもほしくなつた。私は學問なんか嫌ひだ、またそんな事は柄にもない事だ、だがトポグラフイ(風土記)はかなり好き
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