だ。湖水地方の案内も記事も畫も少しは見て居る。併し古い言葉だが百聞一見に如かず。實景はまた格別であらうが、殘念ながら諸君の話を羨ましさうに聞いて居るのみであつた。
 一泊の後翌日は西湖へ船で行つた。この邊は私一個としては曾遊の地で、この河口湖の横斷も嘗て試みた處であるが、恁ういふ靜かな渡し船は幾度くりかへしても快いものだ。特に今は新緑の季で山や森の緑がそれぞれの色を競つて所謂滴るやうである。對岸に近づくとその岸邊から山の方へかけて、何とも知らぬ柔らかさうな新芽を豐かにふいた、遠くから見ると柳かとも思はれる樣な樹が澤山に立ち竝んで居る。葉の色はややうこんにも近いほどで、いかにも若々しさを見せて居る。船から上つてよくよく見れば、それは柿の木であつた。柿、柿は枝ぶりも良い、その枯枝に烏のとまつたのは俳人の詠に殘された位である。枝ぶりも良い、が葉ぶりも惡くなく、その果實の味は言ふまでもないとして、これもまた私共特有の誇るに足るべき樹であらうか。
 船から上つて坂道を行くと、この僻地にも小學校はある。折から放課の時刻であつたか、大勢の子供達は、私達異樣な連中の大勢來たのを見て、ワイワイとはやして居る。見ると中には裸體で居るのも少なからずあるのに驚いたが、またそれが特にうれしかつた。良い意味の禮節はなくなつて、儀禮と言へば、惡い方にのみ取られて居る都には見られない質朴さである。これこそ眞に赤裸々そのものである。春になれば自然は生き返る、寒い間の潛勢力を一時に發揮してかかる。草木の新芽をふき出す力の恐ろしさ、堅い石地でも寸土でも、その生を與へる力のあるには驚かされる。今見る滿山の緑はみなこの生の力である。飜つて人間を見ればこの赤裸々の無數の兒童、この山中の僻地の家の數さへ數へつくされる程なる中に、何百と算するこの兒童の群つて居るのも、これまた生の力ではあるまいか。私は今更ら人間と自然との恐ろしい力を感得せざるを得なかつた。アア恁うモラルを説くのは私の歳の所爲だらうか。
 私は東京を踏み出すと、その第一には必らず頭を痛める癖があるが、この度は今日になつてそれが始まつた、湖上で頂天から日に照りつけられた爲めであらう。歸りの船は午後一時頃にホテルに著いた。出立は三時といふので、まだ暫らくの猶豫はある。私はこの時間を暫時休まうと思つて、少しよわつた足を船から鎔岩の上に運ばした。そして振りかへつて見ると元氣な一女學生は、いつ船を出たか、もう新らたにボオトに乘り移つて舟を操縱して居る。私は驚いてしまつた。併し此處にも生の力を見てうれしかつた。内輪に遠慮勝ちなのは日本の女の美には相違ない、否、日本人の美には相違ない、併しその内輪な遠慮勝ちと、力の發動とは決して矛盾はしない。萬一矛盾するものならば、生の力の前には美も消失すべきである。またしても説法の癖が始まつた、「よしなき老の言ひごと、ただゆるしおはしませ」か。
 歸りの自動車は快よかつた。山中湖畔での休息は特によかつた。それから例の籠坂峠を一氣に下つた。七八臺の自動車がかなりの速力で前後して、紆餘曲折した道を下つて飛ばして行くのは、何か活動寫眞にでもありさうな圖で、これは亦一興であつた。汽車は非常に込み合つて居て、坐る席などは絶無であつた。私は學生から讓られて、婆さんが不相應に足をのばして居るその傍に、僅かに腰を下し得た。すると對坐して一人の青年が居た、中學生で、如何にも眞面目な靜かな樣子である。何中學の生徒であるかはその説明をまつまでもなく、帽子がそれを語つて居た。青年は一卷の書物をのぞいて居る、見るとそれは藤村君の「破戒」であつた。此も修學旅行の歸りと見えたが、他の多數の學生は、車中で殆んど言語にたへた狼藉を演じて居るのに、その仲間であるこの一人の學生は、ひとり靜かにこんな書物を讀んで居るのが頼母しかつた。私は、貴方はそんな本が好きなんですかと尋ねて見た。すると學生は答へて、私はこの著者が好きですと云ひ、なほその「破戒」を私の方に差し出して、讀んで御覽になりませんかと云つた。私は、有難う、併し私はもう大分以前に讀みましたと云つて、好意を謝し且つことわつた。私は今一度若がへつて、こんな純な心をもつた青年になりたくなつた。そしてこの旅が徹頭徹尾、若い人達に引率されたのである、と云つたやうな心持になつて歸つて來た。



底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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