じと一所にみのるの胸には六七年前の追懷の影が射してゐた。船の中からみのるは思ひ出の多い堤を見た。櫻時分の雨の土堤にはなくてならない背景の一とつの樣に、茶屋の葭簀《よしず》が濕《ぬ》れしよぼれた淋しい姿を曝してゐた。そうして梳《くしけず》つたやうな細い雨の足が土堤から川水の上を平面にさつと掠《かす》つてゐた。みのるは又、船が迂曲《うね》りを打つてはひた/\と走つてゆく川水の上に眞つ直ぐに眼を落した。自分の青春はこの川水のさゞなみに、何時ともなくぢり/\と浸し消されてしまつた樣な悲しみがそこに映つてゐた。深い思ひを抱いてうつら/\と逍遙《さまよ》つた若いみのるの顏の上に雫を散らした堤《どて》の櫻の花は、今もあゝして咲いてゐた。それがみのるには又誰かの若い思ひを欺かうとする無殘な微笑の影のやうに思はれてそこにも恨みがあつた。
言問《こととひ》から上にあがると、昔の涙の名殘りのやうに、櫻の雫がみのるの傘の上に音を立てゝ振りこぼれた。土堤の中途でみのると同じ行先きへ落合はうとする舊い知人の二三人に出逢ひながら、師匠の門を潜《くゞ》つた時は、義男と約束した時間よりもおくれてゐた。
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