もつかなかつたみのるは、平生着《ふだんぎ》の上にコートだけを引つかけて歩いていた。その貧しいみのるの姿を後から眺めた時の義男の眼には、かうした舞臺ですべてを忘れてはしやいでゐるみのるの樣子は、醜さを背景にした馬鹿々々しさであつた。
「もう歸らうぢやないか。」
 義男は斯う云つては足をとめた。
 二人は環のやうに取りめぐつてゐる池の向ふの灯を、山の上から眺めながら少しの間立つてゐた。その灯がさゞめいてるのかと思はれる樣な遠い三味線《さみせん》の響きが、二人の胸をそはつかした。みのるは不圖、久し振りな柔らかい着物の裾の重みの事を思つて戀ひしかつた。みのるの東下駄《あづまげた》の先きでさばいてゐた裾はさば/\として寒かつた。
「吉原で懇親會をやるんだそうだ。」
 義男は斯う云つて歩きだした。明りの色が空を薄赤く染めてゐる廣小路の方を後《うしろ》にして、二人は谷中の奧へ足を向け直した。遠い町で奏でゝゐる樂隊の騷々しい音が山の冷えた空氣に統一されて、二人の耳許を觀世水のやうにゆるく襲つては櫻の中に流れて行つた。みのるの胸には春と云ふ陽氣さがいつぱいに溢れた。そうしてこの山の外《そと》に、春の晩に
前へ 次へ
全84ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田村 俊子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング