ぶら/\と歩いてゐた。櫻の白い夜の空は淺黄色に晴れてゐた。森の中の灯は醉ひにかすんだ美しい女の眼のやうに、おぼろな花の間に華やかな光りと光りを目交《めま》ぜしてゐた。
「いゝ晩だわね。」
みのるは然う云つて、思ふさま身振りをして見せると云ふ樣な身體付きをしてはしやいで歩いてゐた。この山の森の中にそつくり秘められてゐた幾千人の戀のさゝやきが春になつて櫻が咲くと、靜な山の彼方此方《あちこち》から櫻の花片《はなびら》の一とつ/\にその優しい餘韻を傳はらせ初めるのだと思つた時に、みのるの胸は微かに鳴つた。みのるは天蓋のやうに枝を低く差し延べた櫻の木の下に、わざわざ兩袖をひろげて立つて見たりした。そうして花の匂ひに交ぢつたコートの古るい香水の匂ひを、みのるはなつかしいものゝ息に觸れるやうに思ひながら、兎もすると捉みどころもなく消えそうになる香りを一と足一と足と追つてゐた。
義男は義男で、堅い腕組みをして素つ氣のない顏をしながらみのると離れてぽつ/\と歩《あ》るいてゐた。義男の頭について廻つてゐる貧乏と云ふ觀念が、夜の花の蔭を逍遙しても何の興味も起らせなかつた。長い間の窮迫に外に出る着物の融通
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