めたものはこの小犬であつた。みのるは思はず涙がこぼれた。
「あなたに別れるよりもメエイに別れる方が悲しい。妙だわね。」
みのるは戯談《じようだん》らしい口吻《くちぶり》を見せてから、いつまでも泣いてゐた。
十三
みのるは一旦母親の手許へ歸る事になつた。義男はあるだけの物を賣り拂つて一時下宿屋生活をする事に定めてしまつた。
こゝまで引つ張つて來てから、ふとこの二人を揶揄《からか》ふやうな運命の手が思ひがけない幸福をすとん[#「すとん」に傍点]と二人の頭上に落してきた。それは、この夏の始めに義男が無理に書かしたみのるの原稿が、選の上で當つたのであつた。
それは、十一月の半ばであつた。外は晴れてゐた。みのるが朝の臺所の用事を爲てゐる時に、この幸福の知らせをもたらした人が來た。
その人は二階でみのるに話をした。その人が歸つてしまつてから二人は奧の座敷で少時《しばらく》顏を見合せながら坐つてゐた。
「本當にあたつたのかしら。」
義男は力のない調子で斯う云つた。
みのるの手に百圓の紙幣《さつ》が十枚載せられたのはそれから五日と經たないうちであつた。二人の上に癌腫の樣に祟《たゝ》つてゐた經濟の苦しみが初めてこれで救はれた。
「誰の爲《し》た事でもない僕のお蔭だよ。僕があの時どんなに怒つたか覺えてゐるだらう。君がとう/\いふ事を聞かなけりやこんな幸福は來やしないんだ。」
義男自身がみのるに幸福を與へたかのやうに義男は云ひ聞かせた。
「誰のお蔭でもない。」
みのるも全く然うだと思つた。みのるはある時義男が生活を愛する事を知らないと云つて怒つた時、みのる自身は自分の藝術の愛護の爲めにこれを泣き悲んだりした。そんな事に自分の筆《ペン》を荒《すさ》ませるくらゐなら、もつと他の筆《ペン》の仕事で金錢といふ事を考へて見る、とさへ思つた。
けれども義男に鞭打たれながらあゝして書き上げた仕事が、こんな好い結果を作つた事を思ふと、みのるは義男に感謝せずにはゐられなかつた。
「全くあなたのお蔭だわ。」
みのるは然う云つた。この結果が自分に一とつの新規の途を開いてくれる發端になるかも知れないと思ふと、みのるは生れ變つた樣な喜びを感じた。
「これで別れなくつても濟むんだわね。」
「それどころぢやない。これから君も僕も一生懸命に働くんだ。」
選をした内の一人に向島の師匠もゐた。その人の點の少なかつた爲に、みのるの仕事は危ふく崩れさうな形になつてゐた。義男は口を極めて向島の師匠を呪つたりした。さうして却つてこの人に捨てられた事を義男はみのるの爲めに祝福した。他に二人の選者がゐた。その人たちはみのるの作を高點にしておいた。義男はこの人たちを尋ねることをみのるに勸めた。一人は現代の小説のある大家であつた。この人は病氣で自宅にはゐなかつた。一人は早稻田大學の講師をしてゐる人で、現代の文壇に權威をもつた評論家であつた。みのるはその人を訪ねた。義男はみのるが出て行く時に、みのるが甞て作して大事に仕舞つておいた短篇をその人の手許へ持つて行く樣に云ひ付けた。その人の手から發行されてる今の文壇の勢力を持つた雜誌に、掲載して貰ふ樣に頼んで來た方がいゝと云ふのであつた。
みのるは義男の云ひ付けを守つてその短篇を持つて出て行つた。今までのみのるなら、こんな塲合には小さくとも自分の權識といふ事を感じて、初對面の人の許へ突然に自作を突き付けるといふやうな事は爲ないに違ひなかつた。けれどもみのるの心はふと痲痺してゐた。
みのるが訪ねた時、丁度其人は家にゐた。然《さう》うしてみのるに面會してくれた。「あれは確に藝術品になつてゐます。いゝ作です。」
その人は痩せた顏を俯向かしながら腕組みをして然う云つた。みのるの出した短篇の原稿もこの人は「拜見しておく。」と云つて受取つた。
その人は女の書くものは枝葉が多くていけないと云つた。根を掘る事を知らないと云つた。それが女の作の缺點だと云つた。みのるは然うした言葉を繰り返しながら歸つて來た。さうして逢つてる間にその人の口から出た多くの學術的な言葉を一とつ/\何時までも噛んでゐた。
十四
「あの仕事にはちつとも權威がない。」
みのるは直きに斯う云ふことを感じ初めた。片手に握つてしまへば切《き》れ端《はじ》も現はれない樣な百圓札の十枚ばかりは直ぐに消えてしまつた。けれどもそんな小さな金ばかりの問題ではない筈であつた。
義男に強ひられて出來た仕事の結果は、思ひがけない幸福をこの家庭に注《つ》ぎ入れたけれども、そのみのるの仕事には少しも權威はなかつた。社會的の權威がなかつた。仕事の上の權威から云つたらまだ一面から誹笑を受けた演劇の方に、熱い血が通つた樣な印象があるとみのるは思つた。
みのるの心
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