かりしてゐるといひながら、矢張り亭主がくると鬘《かつら》を直してやつたり、扮《つく》つた顏を見直してやつたりしてゐた。今度の給金の事でよく小山と紛《もつ》れあつてゐたのもこの早子だつた。みのるはこの早子が忘られなかつた。別れる時その内に遊びに行くと云つた早子は何日になつてもみのるの許へ來なかつた。

 また、小さな長火鉢の前に向ひ合つて、お互の腹の底から二人の姿を眺め合ふやうな日に戻つてきた。
 何時の間にか秋が深くなつて、椽の日射しの色が水つぽく褪めかけてきた。さうして秋の淋しさは人の前髮を吹く風にばかり籠めてゞもおく樣に谷中《やなか》の森はいつも隱者のやうな靜な體を備へてぢつとしてゐた。その森のおもてから目に見えぬほどづゝ何所《どこ》からともなく青い色が次第に剥げていつた。
 二人の生計《くらし》は益々苦しくなつてゐた。寒くなつてからの着料なぞは兎ても算段の見込みが立たなかつた。家の持たてには二人の愛情が濃い色彩を塗つてゐた爲に貧弱な家財道具にもさして淋しさを感じなかつたものが、別々なところにその心を据えて自分々々をしつかりと見守つてゐる樣なこの頃になつては、寒さのとつつき[#「とつつき」に傍点]のこの空虚《からつぽ》な座敷の中は唯お互の心を一層|荒《すさま》しくさせるばかりだつた。それを厭がつてみのるは自分で本などを賣つて來てから、高價《たか》い西洋花を買つて來て彼方此方《あつちこつち》へ挿し散らしたりした。然うしたみのるの不經濟がこの頃の義男には決して默つてゐられる事でなかつた。
 まるで情人と遊びながら暮らしてゞもゐる樣な生活は、どうしても思ひ切つて了はねばならないと義男は思ひつゞけた。七十を過ぎながら小遣ひ取りにまだ町長を勤めてゐる故郷の父親の事を思ふと義男はほんとに涙が出た。只の一度でも義男は父親の許へ菓子料一とつ送つた事はなかつた。義男だといつても自分の力相應なものだけは働いてゐるに違ひなかつた。それが何時も斯うして身滲《みじ》めな窮迫な思ひをしなければならないといふのは、只みのるの放縱がさせる業《わざ》であつた。
 義男は又、昔の商賣人上りの女と同棲した頃の事が繰り返された。その頃は今程の收入がなくつてさへ、何うやら人並な生活をしてゐた。――義男はつく/″\みのるの放縱を呪つた。
 この女と離れさへすれば、一度失つた文界の仕事ももう一度得られるやうな氣もした。みのるが自分の腕に纒繞《まつは》つてゐる爲に、大膽に世間を踏み躙《にじ》れないといふ事が自分に禍ひをしてゐるのだと思ふと、義男はこの女を追ひ出すやうにしても別にならなければならないと思ひ詰める事があつた。
「何か仕事を見付けて僕を助けてくれる譯にはいかないかね。」
 義男は毎日の樣にこれをくり返した。
 遂に男の手から捨てられる時が來たとみのるは意識してゐた。
 十何年の間、みのるは唯ある一とつを求める爲めに殆んど憧れ盡した。何か知らず自分の眼の前から遠い空との間に一とつの光るものがあつて、その光りがいつもみのるの心を手操り寄せやうとしては希望の色を棚引かして見せた。けれどもその光りは、なか/\みのるの上に火の輝きとなつて落ちてこなかつた。みのるは義男の心の影を通して、自分にばかり意地の惡るい人生をしみじみと眺めた。
「何も彼も思ひ切つてしまひたまへ。君には運がないんだから。そうして君はあんまり意氣地がなさ過ぎる。君は平凡な生活に甘んじて行かなけりやならない樣に生れ付いてるんだ。」
 斯ういふ義男の言葉をみのるは思ひ出した。けれども、みのるは矢つ張りその一|縷《る》の光りをいつまでも追つてゐたかつた。遂に自分の手に落ちないものと定《き》まつてゐても、生涯その一縷の光りを追ひ詰めてゐたかつた。然うしてその追ひ詰めつゝゆく間に矢張り自分の生の意味を含ませて見たかつた。
 二人はある晩酉の市から歸つて來てから、別れるといふことを眞面目に話し合つた。
「第一君にも氣の毒だ。僕の働きなんてものは、普通《なみ》の男の以下なんだから。僕はたしかに君一人養ふ力もないんだから一時別になつてくれたまへ。その代り君を贅澤《ぜいたく》に過ごさせる事が出來る樣になつたら又一所になつてもいゝ。」
 これが別れると定《き》まつた時の義男の言葉であつた。
「義男と離れたなら自分は何うしやう。何うして行かう。」
 みのるは直ぐに斯う思つた。さうして自分の傍から急に道連れの影を失ふのが、心細くて堪らなかつた。今まで長く凭れてゐた自分の肌の温みを持つた柱から、辷《すべ》り落されるやうな頼りなさが、みのるの心を容易に定まらせなかつた。
「メエイとも別れるんだわね。」
 みのるは庭で遊んでゐた小犬を見ながら斯う云つた。この小犬は二人の長い月日を叙景的に繋ぎ合せる深い因縁をもつてゐた。二人をよく慰
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