は又だん/\に後退《あとずさ》りして行つた。義男がさも幸運の手に二人が胴上げでもされてる樣な喜びを見せつけてゐる事にも不足があつた。二人の頭上に突然に落ちたものは幸運ではなくつて、唯二人の縁をもう一度繋がせる爲めの運命の神のいたづらばかりであつた。二人の生活はもう直ぐに今までの通りをくり返さなければならないに定まつてゐた。
 みのるははつきりと「何うかしなければならない。」と云ふ事を考へた。もう一度出直さなければならないと考へた。空間を衝く自分の力をもつと強くしなければならないと考へた。みのるの權威のない仕事は何所にも響きを打たなかつたけれども、その一端が風の吹きまわしで世間に形を表しかけたと云ふ事が、みのるの心を初めて激しく世間的に搖ぶつた功果[#「功果」に「ママ」の注記]のあつたのはほんとうであつた。
 その後みのるは神經的に勉強を初めた。今まで兎もすると眠りかけさうになつたその目がはつきりと開いてきた。それと同時に義男といふものは自分の心からまるで遠くなつていつた。義男を相手にしない時が多くなつた。義男が何を云つても自分は自分で彼方《あつち》を向いてる時が多くなつた。みのるを支配するものは義男ではなくなつた。みのるを支配するものは初めてみのる自身の力によつてきた。よく義男の憎んだみのるの高慢は、この頃になつて義男からは見えないところに隱されてしまつた。さうしてその隱された場所でみのるの高慢は一層強く働いてゐた。
「僕のお蔭と云つてもいゝんだ。僕が無理にも勸めなければ。」
 かういふ義男の言葉を、みのるはこの頃になつて意地の惡るい微笑で受けるやうになつた。義男の鞭打つた女の仕事は義男の望む金といふものになつて報ゐられた。そこから受ける男の恩義はない筈だつた。又新しく自分は自分で途を開かねばならないといふみのるの新しい努力に就いては、男はもう何も與へるものを持つてゐなかつた。
 少しづゝ義男の心に女の態度が染み込んでいつた。男を心から切り放して自分だけせつせとある段階を上つて行かうとする女の後姿を、義男は時々眺めた。あの弱い女がかうしてだん/\強くなつてゆく――その捩ぢ切つた樣に強くなつた一とつの動機は矢つ張り發表された例の仕事の結果だとしきや思はれなかつた。然うして自覺の強みを與へたものは矢つ張り自分だと思つた。
 けれども義男は何も云はなかつた。みのるの爲た仕事は何うしてもみのるの仕事であつた。みのるの藝術は何うしてもみのるの藝術であつた。みのるは自分の力を自分で見付けて動きだしたのだ。義男はそれに口を挿むことは出來なかつた。義男は然う思つた時、この女から一と足一と足に取り殘されてゆくやうな不安な感じを味はつた。

 ある時この二人の許へ訪ねて來た男があつた。これは義男と同郷の男で帝國大學の文科生であつた。この男の口からみのるは何日《いつか》の自分の作を選した眞實《ほんたう》のもう一人を知つた。それは簑村といふ新らしい作家であつた。新聞に發表されてゐた選者の一人は病氣であつた爲、その人の門下のやうになつてゐる簑村文學士が代選したのだといふ事がこの男を通じて分つた。この大學生は簑村文學士に私淑してゐる男であつた。
 みのるはそれから間もなくこの大學生に連れられて簑村文學士をたづねた。その人の家は神樂坂の上にあつた。
 其の家へ入つた時、みのるは上り口の薄暗い座敷の中で箪笥の前に向ふむきに立つてゐる男を見た。初めて來た客を奧へ通すまで其所に隱れて待つてゐる樣な容態があつた。その障子が開いてゐたのでみのるの方からすつかり見えた。
 昔はどんなに美しかつたかと思はれるいゝ年輩の女に奧へ通されて待つてゐると、今向ふむきに立つてゐた人が入つて來た。それが簑村文學士だつた。言葉の調子も、身體も重さうな人であつた。
 この文學士は作を選する時の苦心を話した。その原稿が文學士の手許にあつた時、夏の暴風雨と大水に出逢つてすつかり濡らして了ふところだつたのを、文學士の夫人が氣にかけて持ち出したといふ事だつた。その時崖くづれで家が破壞された爲この家へ移つたのださうであつた。
「あれを讀んだ初めはそんなに好いとも思ひませんでしたが中頃から面白いと思ひだした。けれどもね、百點をつけるといふ譯にはいかないと思つてゐると、家へ有野《ありの》といふ男がくる。それに話をすると其れぢや折角の此方《こつち》の主意が通らないといけないから百二十點もつけておけといふんでせう。有野は自分に責任がないからそんな無茶な事をいふけれども私にはまさか然うもゆかない。それで思ひ切つてあなたの點と他の人の點を二三十も違はしておいた。他の選者の點の盛りかたを見るとあなたは危ない方でしたね。」
 文學士は、この女の機運は全く自分の手にあつたのだといふ樣な今更な顏をしてみのるを眺めた
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