ゐたわ。唯好い機會がないから我慢してゐたんだわ。」
義男は舞臺の上のみのるを疑つて中々それに承知を與へなかつた。
「何故いけないの?」
みのるはもう突つかゝり調子になつてゐた。
裸になつた義男は椽側に寐そべつて煙草をのんでゐた。みのるはその前にぶつつりと坐つて※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]え切らない義男の容體を眺めてゐた。
「そんな悠長な生活ぢやないからな。」
義男は然う云つて考へてゐた。みのるが演劇に手腕を持つてゐて、それで澤山な報酬が得られる仕事とでも云ふのなら宜《い》いけれ共、海とも山とも付かない不安な界《さかい》へ又踏み込んで行つて、結局は何方《どつち》へ何《ど》う向き變つて行くか分らないと云ふ始末を思ふと、義男には却つてお荷物であつた。それに自分が毎日出てゆくある小社會の群れに對しても、それ等の人の惡るい仲間たちに舞臺の上の美しくない而《し》かも技藝に拙い女房を見られる事は義男に取つては屈辱だつた。そんな事をみのるが考へてる暇に常收入のある職業を見付けて自分に助力をしてくれる方が義男には滿足だつた。
生活の事も思はずに、斯うして藝術に遊ばう遊ばうとする女の心持が、又|何日《いつか》のやうに憎まれだした。
「君はだまつて書いてゐればいゝぢやないか。」
「何を書くの。」
「書く樣な仕事を見付けるさ。」
「文藝の方ぢやいくら私が考へても世間で認めてくれないぢやありませんか。今度はいゝ時機だからもう一度演藝の方から出て行くわ。私には自信があるんですもの。それに酒井さんや行田さんが、ステージマネジヤならきつとやれるわ。」
みのるは眼を輝かして斯う云つた。みのるは實は筆の方に自分ながら愛想を盡かしてゐたのであつた。それはこの間の仕事によつて自分で分つたのであつた。ひそかに筆の上に新らしい生命を養ひつゝあるとばかり自負してゐたみのるは、この間の仕事にそれがちつとも現はれてこなかつた事を省みると、自分ながら厭になつてゐた。けれ共義男には然うは云はなかつた。何故ならあの時にみのるは義男に向つて自分の大切な筆をそんな賭け見たいな事に使はないと云つて罵り返したのであつた。その自分の言葉に對してもみのるには其樣《そんな》おめ/\した事は義男の前で云へなかつた。
自分ながら筆の上に思ひを斷つ以上、もう一度舞臺の方で苦勞がして見たかつた。新聞で見た新劇團の女優募集の記事はこの塲合のみのるには渡りに船であつた。
「僕は君は書ける人だと思つてゐる。だからその方で生活を助けたらいゝぢやないか。第一そんな事をするとしても君の年齡はもうおそいぢやないか。」
「藝術に年齡がありますか。」
「そりや藝術の人の云ふ事だ。君はこれからやるんぢやないか。」
「それならよござんす。私は私でやりますから。あなたの爲の藝術でもなければあなたの爲の仕事でもないんですから。私の藝術なんですから。私のする仕事なんですから。然う云ふ事であなたが私を支へる權利がどこにあります。あなたがいけないと云つたつて私はやるばかりですから。」
斯う云ひきるとみのるの胸には久し振な慾望の炎がむやみと燃え立つた。そうして自分を見縊《みくび》るこの男を舞臺の上の技藝で、何でも屈服さしてやらなければならないと思つた。
「そんな準備の金は何所から算段するんだ。」
「自分で借金をします。」
十
みのるを加入《いれ》ると云ふ意味のはがきが小山の許から來てから、間もなく本讀みの日の通知があつた。
みのるの前に斯うして一日々々と新たな仕事の手順が捗《はかど》つて行くのを見てゐると、義男は氣が氣ではなかつた。平氣な顏をして、何所か遠いところに引つ掛つてゐる望みの影を目をはつきりと開いて見据えてる樣なみのるの樣子を、義男は傍で見てゐるに堪《こら》へられない日があつた。
「舞臺の上が拙《まづ》くつてみつともなければ、僕はもう決して社へは出ないからな、君の遣りかた一とつで何も彼も失つてしまうんだからそのつもりでゐたまへ。」
それを聞くとみのるは義男の小さな世間への虚榮をはつきりと見せられた樣になつて不快《いや》な氣がした。何故この男は斯う信實がないのだらうと思つた。少しも自分の藝術に向つての熱を一所になつて汲んでくれる事を知らないのだと思つて腹が立つた。そうしてその小さな深みのない男の顏をわざと冷淡に眺めたりした。
「ぢや別れたらいゝぢやありませんか。然うすりやあなたが私の爲に耻ぢを掻かなくつても濟むでせう。」
こんな言葉が今度は女の方から出たけれども今の義男はそれ程の角《かど》を持つてゐなかつた。女が派出な舞臺へ出るといふ事に、女へ對するある淺薄《あさはか》な興味をつないで見る氣にもなつてゐた。
「君にそれだけの自信があればいゝさ。」
義男は然う云つて
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