默つた。
 清月でみのるは酒井にも行田にも逢つた。何方もみのるの見知り越しの人であつた。酒井といふのは、一方では、これから理想の演劇を起そうとして多くの生徒をごく内容的に養成してゐる或る博士のもとに働いてゐる人であつた。みのるはこの酒井のハムレツトを見て、その新らしい技藝に醉つたことがあつた。
 眼と鼻のあたりに西洋人らしい俤はあつたが丈《せい》の小さい人であつた。行田は圖拔けて背の高い人であつた。いつも眼の中に思想を蓄へてると云ふ樣な顏付をしてゐた。笑つても頭の奧で笑つてる樣なぬつとした容態があつた。
 鋭くしやんとした酒井と、重く屈《かゞ》み加減になつてる行田とはいつも兩人《ふたり》ながら膝前をきちりと合はせて稽古の座敷の片隅に並んで座つてゐた。
 その中を例の小山は睫毛《まつげ》の長い愛嬌に富んだ眼を隅から隅へ動かしながら、その小さな身體をちよこ/\と彈ましてゐた。
 みのるの外に女優が二三人ゐた。どれも若くて美しかつた。早子《はやこ》と云ふのは顏は痩せてゐたけれども目を瞑《つぶ》つたりすると印象の強い暗い蔭が漂つた。そうして口豆《くちまめ》な女だつた。艶子《つやこ》と云ふのがゐた。顏の輪廓の貞奴に似た高貴な美しさを持つてゐた。その中にゐて、みのるは矢つ張り行田の手で作られた戯曲の女主人公をやる事に定まつてゐた。
 その女主人公は音樂家の老孃であつた。それが不圖戀を感じてから、今まで冷めたく自分を取卷いてゐた藝術境から脱けて出てその戀人と温い家庭を持たうとした。その時にその戀人の夫人であつた女から嫉妬半分の家庭觀を聞いて、又淋しくもとの藝術の世界に一人して住み終らうと決心する。と云ふのであつた。
 他の俳優たちは誰もその脚本を笑つてゐた。他の俳優といふのは壯士俳優の三流ぐらゐなところから、手腕《うで》のあるのをすぐつて來た群れであつた。その中からこの脚本に現はれた人物に扮する樣に定められた男が二人ほどあつた。その頭では解釋のしきれないむづかしい言葉が續々と出てくるので閉口して笑つてゐた。
 みのるが詰めて稽古に通ふ樣になつた時はもう冷めたい雨の降りつゞく秋口《あきぐち》になつてゐた。雨の降り込む清月の椽に立つて、べろ/\した單衣一枚の俳優たちが秋の薄寒さをかこつ樣な日もあつた。朝早く清月に行つてみのるが一人で臺詞《せりふ》をやつてる時などに、濡れた外套を着た酒井が頸元《えりもと》の寒そうな風をして入つて來る事もあつた。お互の挨拶の息が冷めたい空氣にかぢかんでる樣な朝が多くなつてゐた。
 行田も酒井もいつも朝早く定めた時刻までには出て來てゐた。そうして怠けた俳優たちがうそ/\集つてくるまで、二人は無駄な時間を空に費してゐる事が毎日の樣であつた。藝術的の氣分に緊張してゐるこの二人と、旅藝人のやうに荒んだ、統一のない不貞《ふて》た俳優たちとの間にはいつもこぢれ[#「こぢれ」に傍点]た紛雜《ふんさつ》[#ルビの「ふんさつ」はママ]が流れてゐた。酒井は殊にぽん/\と怒つて、藝人根性の主張をやめないその俳優たちを表面から責めたりした。酒井の譯したピネロの喜劇は全部この不統一な俳優たちの手で演じられる事になつてゐた。その稽古が少しもつまないと云つて、酒井は「ちつとも藝術品になつてゐない。然うてん/″\ばら/\では仕方がない。」と云つて一人でぢり/\してゐた。
 けれども演劇で飯を食べてるこの連中は、酒井などから一々臺詞にまで口を入れられる事に就いて、明らかな惡感《あくかん》を持つてゐた。俳優たちは沈默の反抗をそのふところ手の袖に見せて、酒井の小言の前で氣まづい顏をしてゐる事が多かつた。
「初めからのお約束ですから、少々氣に入らない事があつても一致してやつて頂かなけりや困ります。どうでせう皆さん。もう日もない事ですから一とつ一生懸命になつて臺詞を覺えて頂く譯には行きませんか。」
 酒井の傍に坐つた小山が、こんな事を云つて口に皺を寄せながら向ふに集まつた俳優たちを眺めてゐる事もあつた。
 その中で女優ばかりは誰も彼《か》も評判がよかつた。皆が舞臺監督の云ふ事をよく聞いて稽古を勵《はげ》んでゐた。
「こんなに女優が重い役をやると云ふのは今度が初めだから、一とつ思ひ切つた立派な藝を見せていたゞき度い。女優の技藝によつてこの新劇團の運命が定まるやうなものだと思つて充分に演《や》つて頂きたい。女優と云ふものも馬鹿に出來ないものだと云ふ事を今度の興行によつて世間へ見せて頂きたい。」酒井は斯う云つて女優たちを上手におだてた。
 その中にゐて、みのるには例の惡るい癖がもう初まつてゐた。自分の氣分がこの俳優の群れに染まないと云ふ事がすつかりみのるを演劇の執着からはなしてしまつた事であつた。みのるは芝居をする事がもう厭になつてゐた。そうして、何時もこの俳優
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