難うよ。」
小犬に向つてから云つて了ふとみのるの眼から又涙がみなぎつて落てきた。みのるは生れて初めて泣き/\外を歩くと云ふ樣な思ひを味ひながら、右の袂で顏を拭きながら家の方へ歩いて行つた。
八
みのるは外に立つて暫時《しばらく》家の中の樣子を伺つてから入つて行つた。茶の間の電氣を點《つ》けて其邊を見まわすと、其處には先刻《さつき》義男が投げ付けた煙草盆の灰のこぼれと、蹴散らされた膳の上のものとが、汚らしく狼藉としてゐるばかりで義男はゐなかつた。しばらくしてみのるが座敷の汚れを掃除してゐる時に、二階で人の寐返りを打つた樣などしり[#「どしり」に傍点]とした響きが聞こえたので、義男は二階に寐てゐるのだとみのるは思つた。腮《あご》の骨の痩せこけた、頸筋の小供の樣に細い顏と頭を、上の方で組んだ兩肱の中に埋め込んで直《ぢ》かな疊の上に寢轉んでゐる義男の姿がこの時のみのるの胸に浮んでゐた。
さうして、みのるの心はその義男の前にもう脆く負けてゐた。自分が筆を付けると云ふ事が、義男の望む「働き」と云ふ意味になつて、さうして義男を喜ばせる一とつになるならそれは何の造作もない仕事だと云ふ樣な、女らしい氣安さにその心持が返つてゐた。
長い間世間の上に喘ぎながら今日まで何も掴み得なかつたみのるの心は、いつともなく臆病になつてゐて、然《さ》うしてその心の上にもう疲勞の影が射してゐた。みのるは如何程強い張りを持ち初めても、直ぐ曉の星の樣にかうして消へていつた。そうして矢つ張り唯一人の義男の情《なさけ》に縋つて行かなければ生きられない樣な自らの果敢ない悲しみを、みのる自身が傍から眺めてゐる樣な心の態度で自分の身體を男の前に投げ出して了ふのが結局《おち》だつた。
みのるは其の翌《あく》る日から毎日机に向つて、半分草しかけてあつた或る物語の續きを書き初めた。兎もすると厭になつてみのるは幾度止そうとしたか知れなかつた。少しもそれに氣乘りがしてこなかつた。
今日まで書きかけて机の中に仕舞つておいた作といふのは、みのるの氣に入つたものではなかつた。自分の藝が一度踏み入つた境から何うしても脱れる事の出來ない一とつの臭味《くさみ》を持つてゐる事をつく/″\感じながら、とう/\筆を投げてしまつたその書きかけなのであつた。だからみのるは後半を直ぐに續けて行かうとする前に、もつとその
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