軒さへ潜《くゞ》るけれども、義男は女の好む藝術の爲に新らしい書物一とつ供給《あてが》ふ事を知らなかつた。義男は小さな自分だけの尊大を女によつて傷づけられまい爲に、女が新らしい智識を得ようと勉める傍でわざとそれに辱ぢを與へる樣な事さへした。新らしい藝術にあこがれてゐる女の心の上へ、猶その上にも滴《したゝ》るやうな艶味《つや》を持たせてやる事を知らない義男は、たゞ自分の不足な力だけを女の手で物質的に補はせさへすればそれで滿足してゐられる樣な男なのだと云ふ事が、みのるの心に執念《しふね》く繰り返された。
「私があなたの生活を愛さないと云ふなら、あなたは私の藝術を愛さないと云はなけりやならない。」
 先刻《さつき》義男に斯う云つてやるのだつたと思つた時に、みのるの眼には血がにじんで來るやうに思つた。
 男の生活を愛する事を知らない女と、女の藝術を愛する事を知らない男と、それは到底一所のものではなかつた。義男の身にしたら、自分の生活を愛してくれない女では張合のない事かも知れない。毎日出てゆく義男の蟇《がま》口の中に、小さい銀貨が二つ三つより以上にはいつてゐた事もなかつた。それを目の前に見て上の空な顏をしてゐる事が出來るみのるは、義男に取つては一生を手を繋いでゆく相手の女とは思ひやうも無い事かも知れなかつた。
「二人は矢つ張り別れなければいけないのだ。」
 みのるは然う思ひながら歩き出した。初めて、凝結してゐた瞳子《ひとみ》の底から解けて流れてくる樣な涙がみのるの頬にしみ/″\と傳はつてきた。
 みのるの歩いてゆく前後には、もう動きのとれない樣な暗闇がいつぱひに押寄せてゐた。その顏のまわりには蚊の群れが弱い聲を集めて取り卷いてゐた。振返ると、その闇の中に其方此方《そちこち》と突つ立てゐる石塔の頭が、うよ/\とみのるの方に居膝《ゐざ》り寄つてくる樣な幽な幻影を搖がしてゐた。みのるは自分一人この暗い寂しい中に取殘されてゐた氣がして早足に墓地を繞《めぐ》つてゐる茨垣《ばらがき》の外に出て來た。
 其邊をうろついてゐたメエイが其所へ現はれたみのるの姿を見附けると飛んで來てみのるの前にその顏を仰向かしながら、身體ぐるみに尾を振つて立つた。突然この小犬の姿を見たみのるは、この世界に自分を思つてくれるたつた一とつの物の影を捉へたやうに思つて、その犬の體を抱いてやらずにはゐられなかつた。
「有
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