見たり、眼を離すのがただ惜しくてならない。ローマやナポリでアフロディテの大理石像の観照に耽《ふけ》った時とまるで同じような気持である。炎々と燃えているかがり火も美の神を祭っているとしか思えない。
あたりの料亭や茶店を醜悪と見る人があるかも知れないが、私はそうは感じない。この美の神のまわりのものは私にはすべてが美で、すべてが善である。酔漢が一升徳利を抱《かか》えて暴れているのもいい。群集からこぼれ出て路端に傍若無人に立小便をしている男も見逃してやりたい。どんな狂態を演じても、どんな無軌道に振舞っても、この桜の前ならばあながち悪くはない。
今年は三日ばかり続けて散歩がてらに行ってみたが、いつもまだ早過ぎた。三日目には二、三分通りは花が開いていた。その後は雨に振り込められたり世事に忙殺されたりして桜のことを忘れていた。思い出して行った午後にはもう青葉まじりになってチラリチラリと散っていた。七、八分という見頃から満開にかけてはとうとう見損ってしまった。
更に数日後に、花がないのは覚悟でもう一度行ってみた。夜の八時頃であったろう。枝垂桜の前の広場のやぐらからレコードが鳴り響いて、下には二
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