日本人ではないかといいたくなる。いわんや新聞に「ブック・レヴュー」とか「ホーム・セクション」とかいう欄が設けられているのは私には全く不可解である。
如何《いか》に外来語が好んで用いられるかは、最近の新聞記事に「スラムのブルジョア、ルンペン群中のクイーン」と書いてあった一例によってだけでもわかる。また仮りに『文藝春秋』五月号を開いてみても大臣または大臣級の人たちが「労働者はない、しかるにメンタルの働き手というものは余っているという訳だな。それで高等教育と国の事情とがマッチしないですな」とか「高橋さんの性格の長所たりし恬淡《てんたん》がスプールロース・フェルローレン!〔あとかたもなく消えてしまった〕 実に意外の感があった」などといっている。これらは何の必要があって外国語を用いるのか私は了解に苦しむのである。
欧米語に対する社会一般の軽薄な好奇心を統制して大和《やまと》言葉ないしは東洋語の尊重を自覚させるにはどうしたらいいか。その基礎がひろく日本精神の鼓吹にあることはいうまでもない。基礎さえ出来れば外来語はおのずから影をうすくするであろう。基礎が出来なくては何もならない。基礎を前提すると
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