東洋語としての日本語の統体が欧米語によって煩《わずら》わされること今日のごとく甚しい場合に、我々の日用語が大部分外来語だといって無関心をきめ込むのは識見においていささか欠けるところがありはしないだろうか。
第二の反対理由は、特殊な語感が日本語では出ない場合があるという点である。たとえば「デー」は「日」よりも、「ゴー・ストップ」は「進め、止まれ」よりも語感が強くて効果的である。「テロ」を「恐怖手段」といい、「ギャング」を「殺人強奪隊」といっては感じが出ない。エロ・百パーセントも「色気たっぷり」では近代色を欠いている。外国の文化が新しくはいってくれば、外国語もそれに伴ってはいるのが当然である。西洋文明に対して広く門戸を開いている日本の現状では外来語の排斥は到底できないというのである。この理由はかなり強い反対理由である。殊《こと》にある種の語は特殊の情調を備えていて外来語として受け入れるより他に方法のないと考えられるものもある。私といえども一切の外来語を全部排斥せよなどと極端なことをいうのではない。そのようなことはいってみたところで決して行われ得ることではない。
我々は西洋文明からも大いに学ぶべきところがあり、従っていくぶんかの外来語を不可欠的悪として見逃がすだけの雅量をもっていなければならない。しかしこれも程度の問題である。語感の強弱というくらいのことを外来語採用の標準とすることは断じてゆるせないと思う。英語やドイツ語は日本語に較べてたいていの場合に語感が強い。現代の日本人が語感の強い語を喜ぶとすれば、いっそ日本語を捨てて英語やドイツ語ばかり用いたらいいということにまでなってしまいそうである。「試験」などとなまやさしくいうよりは「エクザーメン」といった方が試験の感情当価はよほどよく表現されている。「わが祖国」というよりは「マイン・ファーターランド」といった方が遥《はるか》に荘重に響く。
第三の反対理由は言語の世界にも適者生存の自然|淘汰《とうた》が行われている、人為的な強制などでは、言語の改廃は困難であるというのである。ガラスだのベルだのコップだのは生活上の必要から言馴れてもうすっかり落ついてしまったではないか。ジュバン(襦袢)などになると完全に時効にかかってしまって外来臭を脱している。もとはポルトガル語だといい聞かされて初めてそうかと知るくらいのものである。便利
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