かひさたか》博士をして「何デー」「何デー」「ナンデイ」「ナンデイ」「ナニヲ云ッテヤガルンデイ」、日の神の「日」という美しい言葉を持ちながら何を苦しんで「デー」などという紅毛の国のダミ言葉を使うのかと憤慨させるのも誠に道理がある。外来語は山紫水明の古都までも無遠慮に侵入している。平安朝このかた一千年の伝統をだらりの帯に染め出しているような京の舞妓《まいこ》に「オープンでドライヴおしやしたらどうどす」などといわれると腹の底までくすぐったい感じがする。
ニュース、センセーション、サーヴィス、サボタージュ、カムフラージュ、インテリ、サラリーマン、ルンペン、ビルディング、デパート、アパート、ヒュッテ、スポーツ、ハイキング、ピクニック、ギャング、アナウンサー、メンバー、マスター、ファン、シーズン、チャンス、ステートメント、メッセージ、リード、マッチ、スローガン、ブロック等々の言葉は既に常識化されてしまった。
近頃は日本にも外来語の字引がぼつぼつ出来てきたが、ドイツには早くから十数種の外来語辞典があるほど外来語が多い。私がドイツへ行ったのは世界大戦の直後であったからドイツ全国民を挙げて外来語の排撃につとめている時であった。ハイデルベルクでもベデッカーの案内記にはグランド・ホテルとなっている旅館もハイデルベルゲル・ホーフと改名していた。料理の献立を見てもソースのことをテウンケなどと書いてあった。テウンケはドイツ人にもわかりにくいということであった。テレフォーンのことはフェルンシュプレッヘルといい、ラジオのことはルンドフンクといった風であった。日本でも外来語の整理が全国民の関心事となるのは欧米との戦争というような犠牲を払った後でなければ期しがたいのであろうか。
外来語の整理、統制ということには反対の意見もある。第一の反対理由は、我々の日常使用している言語の大部分は外来語であるから今更、外来語を不浄扱いして排斥しないでもよかろうというのである。これは一理あるようであるが、漢語や梵語《ぼんご》の輸入された時代の日本と現代の日本との文化の程度の相違ということを考慮に入れるならば決して一律には論じられないと思う。原始的状態にあった昔の日本が外来語を入れたからといって、現代の日本も外来語に対して無抵抗主義を取れという理窟は立たない。まして東洋と西洋ということには文化的に大きい相違がある。
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