が中心であるから外来語でもほっておけば完全に同化されてしまう。また社会民衆は賢明であるから不用な外来語は時の経過と共に廃滅する。こういうのである。この言語学上の事実は私もある程度において認めはするが、この事実を理由として外来語の統制に反対する自由主義の立場に賛意を表することは私にはできない。
 日本語を欧米の侵入に対して防禦することを私は現代の日本人の課題の一つと考えたい。満洲へ軍隊を送るばかりが国防ではない。挙国一致して日本語の国民性を擁護すべきであろう。故松田文相の外来語排撃の旗印は文教の府の首班として確かに卓見であった。我々はしかし文部省あたりの調査や審議に任せて安心しているわけにはゆかない。外来語の整理、統制の問題はかくべつ調査や審議を要する問題ではない。要はただ実行にある。社会民衆の恣意《しい》に任せて安堵《あんど》しているのも間違っている。民衆は賢明なところもあるが愚昧《ぐまい》なところもある。用もないのにむやみに外来語を使いたがる稚気と、僅《わずか》ばかりの外国語の知識をやたらにふりまわしたがる衒気《げんき》とが民衆にないとは決していえない。
 映画アーベントなどという広告をよく新聞に見る。アーベントという言葉を用いたのは明治の終りか大正の初めころ、帝大の山上御殿ではじめて開かれた哲学会のカント・アーベントあたりが最初であったろうと思う。カント・アーベントには相当に意味があるが、映画アーベントに至っては笑止の極みである。そのうちに映画のソアレエなどといい出してフランス風を吹かせるようになるかもしれない。「喫茶店」が「サロン・ド・テー」になりかけているけはいもみえる。花道へ現れた紙屋治兵衛に「モダンボーイ」と呼びかける弥次馬の声などもただ笑って聞いてばかりもいられないような気がする。「なが子」が「ロング」、「おもん」が「ゲート」、「小栄竜」が「スモール・プロスペラス・ドラゴン」などと名乗って嬉しそうにしているのは罪がなくていいが、新聞に堂々と「サタデーサーヴィス」「雛《ひな》人形セット」「呉服ソルド市」「今シーズン第一の名画」「愛とユーモアの明るい避暑地」「このチャンスを逃さず本日|只今《ただいま》申込まれよ」などと広告が出ているのを見ると何だか人を馬鹿にしているような気がして私は腹立たしいほど嫌悪を感じる。いったい誰れに向って広告をしているのだ。お互に
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
九鬼 周造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング