そこから虚偽が起ったのだ。それが誤解の正体だ。偶然という魔法の戯れが手品師のようにいきなり怪しい煙を起こしたのだから山崎が誤解したのは全く無理もないことだ。

 翌朝、起きて村上は手帳にこんなことを書きつけた。「どうも実社会のことは x=b, b=a, ∴ x=a というようなパスカルのいわゆる「幾何学《ジェオメトリー》の精神《エスプリ》」だけではわからないことが多い。bとb′[#「b′」は縦中横] との相違を見わける「尖鋭《フィネス》の精神《エスプリ》」がどうしても必要だ。偶然などという奴は「尖鋭の精神」の権化みたようなもので、よっぽど精神をほそくとんがらかさないでは捉えにくい代物だ。人間と人間との間の誤解というようなこともほんのちょっとしたことから起るものだ。
 山崎にも感想を書いて送ろうかとしたが、それほどのことでもないと考えてやめてしまった。そしてその日から村上は毎朝、毎朝、朝食には山崎より貰った若狭の笹がれいを欠かさずに食べた。主人がよくも飽きないものだと台所で女中たちがささやき合った。



底本:「九鬼周造随筆集」菅野昭正編、岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年
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