ャ立しているため、「いき」とは甚だ縁遠いものである。藤原時代の輪違《わちがい》模様、桃山《ももやま》から元禄《げんろく》へかけて流行した丸尽《まるづく》し模様なども同様に曲線であるために「いき」の条件に適合しない。元来、曲線は視線の運動に合致しているため、把握《はあく》が軽易で、眼に快感を与えるものとされている。またこの理由に基づいて、波状線の絶対美を説く者もある。しかし、曲線は、すっきりした、意気地ある「いき」の表現には適しない。「すべての温かいもの、すべての愛は円か楕円《だえん》かの形をもち、螺旋状その他の曲線を描いてゆく。冷たいもの、無関心なもののみが直線で稜《りょう》をもつ。兵隊を縦列に配置しないで環状に組立てたならば、闘争をしないで舞踏《ぶとう》をするであろう{1}」といった者がある。しかし、「いき」のうちには「慮外《りょがい》ながら揚巻《あげまき》で御座《ござ》んす」という、曲線では表わせない峻厳《しゅんげん》なところがある。冷たい無関心がある。「いき」の芸術形式がいわゆる「美的小{2}」と異なった方向に赴《おもむ》くものであることは、これによってもおのずから明白である。
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