わった、刺戟《しげき》の強い、複雑なものである。第二の点として、「いき」な味は、濃厚なものではない。淡白なものである。味覚としての「いき」は「けもの店《だな》の山鯨《やまくじら》」よりも「永代《えいたい》の白魚《しらうお》」の方向に、「あなごの天麩羅《てんぷら》」よりも「目川《めがわ》の田楽《でんがく》」の方向に索《もと》めて行かなければならない。要するに「いき」な味とは、味覚のほかに嗅覚や触覚も共に働いて有機体に強い刺戟を与えるもの、しかも、あっさりした淡白なものである。しかしながら、味覚、嗅覚、触覚などは身体的発表として「いき」の表現となるのではない。「象徴的感情移入」によって一種の自然象徴が現出されるに過ぎない。身体的発表としての「いき」の自然形式は、聴覚と視覚に関するものと考えて差支ないであろう。そうして視覚に関してはアリストテレスが『形而上学《けいじじょうがく》』の巻頭にいっている言葉がここにも妥当する。曰《いわ》く「この感覚は他の感覚よりも我々にものを最もよく認識させ、また多くの差異を示す」(Aristoteles, Metaphysica A 1, 980a)
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