見せ」ている。浮世絵師も種々の方法によって脛《はぎ》を露出させている。そうして、およそ裾《すそ》さばきのもつ媚態をほのかな形で象徴化したものがすなわち左褄《ひだりづま》である。西洋近来の流行が、一方には裾を短くしてほとんど膝《ひざ》まで出し、他方には肉色の靴下をはいて錯覚の効果を予期しているのに比して、「ちよいと手がるく褄をとり」というのは、遙《はる》かに媚態としての繊巧《せんこう》を示している。
 素足[#「素足」に傍点]もまた「いき」の表現となる場合がある。「素足《すあし》も、野暮な足袋《たび》ほしき、寒さもつらや」といいながら、江戸芸者は冬も素足を習《ならい》とした。粋者《すいしゃ》の間にはそれを真似《まね》て足袋を履《は》かない者も多かったという。着物に包んだ全身に対して足だけを露出させるのは、確かに媚態の二元性を表わしている。しかし、この着物と素足との関係は、全身を裸にして足だけに靴下または靴を履く西洋風の露骨さと反対の方向を採《と》っている。そこにまた素足の「いき」たる所以《ゆえん》がある。
 手は媚態と深い関係をもっている。「いき」の無関心な遊戯が男を魅惑する「手管《てく
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