交渉以外の性的関係は、早くも唯物主義と手を携《たずさ》えて地獄に落ちたのである。その結果として、理想主義を予想する「意気地」が、媚態をその全延長に亙《わた》って霊化して、特殊の存在様態を構成する場合はほとんど見ることができない。「女の許《もと》へ行くか。笞《むち》を忘るるな{11}」とは老婆がツァラトゥストラに与えた勧告であった。なお一歩を譲って、例外的に特殊の個人の体験として西洋の文化にも「いき」が現われている場合があると仮定しても、それは公共圏に民族的意味の形で「いき」が現われていることとは全然意義を異にする。一定の意味として民族的価値をもつ場合には必ず言語の形で通路が開かれていなければならぬ。「いき」に該当する語が西洋にないという事実は、西洋文化にあっては「いき」という意識現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所をもっていない証拠である。
 かように意味体験としての「いき」がわが国の民族的存在規定の特殊性の下《もと》に成立するにかかわらず、我々は抽象的、形相的の空虚の世界に堕してしまっている「いき」の幻影に出逢う場合があまりにも多い。そうして、喧《やかま》しい饒舌《じょうぜつ
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