を感じ得る場合が仮りにあったとしても、それは既に民族的色彩を帯びた我々の民族的主観が予想されている。その形式そのものが果して「いき」の客観化であるか否《いな》かは全くの別問題である。問題は畢竟《ひっきょう》、意識現象としての「いき」が西洋文化のうちに存在するか否かに帰着する。しからば意識現象としての「いき」を西洋文化のうちに見出すことができるであろうか。西洋文化の構成契機を商量するときに、この問は否定的の答を期待するよりほかはない。また事実として、たとえばダンディズムと呼ばるる意味は、その具体的なる意識層の全範囲に亙《わた》って果して「いき」と同様の構造を示し、同様の薫《かおり》と同様の色合《いろあい》とをもっているであろうか。ボオドレエルの『悪の華』一巻はしばしば「いき」に近い感情を言表《いいあら》わしている。「空無の味」のうちに「わが心、諦めよ」とか、「恋ははや味わいをもたず」とか、または「讃《ほ》むべき春は薫を失いぬ」などの句がある。これらは諦めの気分を十分に表わしている。また「秋の歌」のうちで「白く灼《や》くる夏を惜しみつつ、黄に柔《やわら》かき秋の光を味わわしめよ」といって人
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