ゥくして聴覚は音の高低を判然と聴き分ける。しかし部音は音色の形を取って簡明な把握に背《そむ》こうとする。視覚にあっても色彩の系統を立てて色調の上から色を分けてゆく。しかし、いかに色と色とを分割してもなお色と色との間には把握しがたい色合《いろあい》が残る。そうして聴覚や視覚にあって、明瞭な把握に漏《も》れる音色や色合を体験として拾得するのが、感覚上の趣味である。一般にいう趣味も感覚上の趣味と同様に、ものの「色合」に関している。すなわち、道徳的および美的評価に際して見られる人格的および民族的色合を趣味というのである。ニイチェは「愛しないものを直ちに呪《のろ》うべきであろうか」と問うて、「それは悪い趣味と思う」と答えている。またそれを「下品」(〔Po:bel−Art〕)だといっている{2}。我々は趣味が道徳の領域においト意義をもつことを疑おうとしない。また芸術の領域にあっても、「色を求むるにはあらず、ただ色合のみ{3}」といったヴェルレエヌとともに我々は趣味としての色合の価値を信ずる。「いき」も畢竟《ひっきょう》、民族的に規定された趣味であった。したがって、「いき」は勝義における sens intime によって味会されなければならない。「いき」を分析して得られた抽象的概念契機は、具体的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過ぎない。「いき」は個々の概念契機に分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することはできない。「媚態《びたい》」といい、「意気地《いきじ》」といい、「諦《あきら》め」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。それ故に概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙《かんげき》がある。換言すれば、「いき」の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には截然《せつぜん》たる区別がある。我々が分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成し得るように考えるのは、既に意味体験としての「いき」をもっているからである。
意味体験としての「いき」と、その概念的分析との間にかような乖離的《かいりてき》関係が存するとすれば、「いき」の概念的分析は、意味体験としての「いき」の構造を外部より了得《りょうとく》せしむる場合に、「いき」の存在の把握に適
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