獅唐狽翌奄唐唐nschaft, 1923, S. 361 参照。
 {2}「美的小」の概念に関しては Lipps, Aesthetik, 1914, I, S. 574 参照。
 {3}米国国旗や理髪店の看板が縞模様でありながら何らの「いき」をももっていないのは、他にも理由があろうが、主として色彩が派手であることに起因している。婦人用の烟管《きせる》の吸口と雁首《がんくび》に附けた金具に、銀と赤銅《しゃくどう》とを用いて、銀白色の帯青灰色との横縞を見せているのがある。形状上では理髪店の看板とほとんど違わないが、色彩の効果によって「いき」な印象を与える。
 {4}『哲学雑誌』、第二十四巻、第二百六十四号所載。
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     六 結  論

 「いき」の存在を理解しその構造を闡明《せんめい》するに当って、方法論的考察として予《あらかじ》め意味体験の具体的|把握《はあく》を期した。しかし、すべての思索の必然的制約として、概念的分析によるのほかはなかった。しかるに他方において、個人の特殊の体験と同様に民族の特殊の体験は、たとえ一定の意味として成立している場合にも、概念的分析によっては残余なきまで完全に言表されるものではない。具体性に富んだ意味は厳密には悟得の形で味会されるのである。メーヌ・ドゥ・ビランは、生来の盲人に色彩の何たるかを説明すべき方法がないと同様に、生来の不随者として自発的動作をしたことのない者に努力の何たるかを言語をもって悟らしむる方法はないといっている{1}。我々は趣味としての意味体験についてもおそらく一層述語的に同様のことをいい得る。「趣味」はまず体験として「味わう」ことに始まる。我々は文字通りに「味を覚える」。更に、覚えた味を基礎として価値判断を下す。しかし味覚が純粋の味覚である場合はむしろ少ない。「味なもの」とは味覚自身のほかに嗅覚《きゅうかく》によって嗅《か》ぎ分けるところの一種の匂《におい》を暗示する。捉《とら》えがたいほのかなかおりを予想する。のみならず、しばしば触覚も加わっている。味のうちには舌ざわりが含まれている。そうして「さわり」とは心の糸に触れる、言うに言えない動きである。この味覚と嗅覚と触覚とが原本的意味における「体験」を形成する。いわゆる高等感覚は遠官として発達し、物と自己とを分離して、物を客観的に自己に対立させる。
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