、芸者であったことを述べている。この場合、その女のもっていた昔の甘味は否定されて渋味になっているのである。渋味はしばしば派手の反対意味として取扱われる。しかしながらそれは渋味の存在性を把握するに妨害をする。派手の反対意味としては地味がある。渋味をも地味をも斉《ひと》しく派手に対立させることによって、渋味と地味とを混同する結果を来たす。渋味と地味とは共に消極的対他性を表わす点に共通点をもっているが、重要なる相違点は、地味が人性的一般性を公共圏として甘味とは始めより何ら関係なく成立しているに反して、渋味は異性的特殊性を公共圏として甘味の否定によって生じたものであるという事実である。したがって、渋味は地味よりも豊富な過去および現在をもっている。渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶《つや》がある。
しからば、渋味および甘味は「いき」とはいかなる関係に立っているか。三者とも異性的特殊存在の様態である。そうして、甘味を常態と考えて、対他的消極性の方向へ移り行くときに、「いき」を経て渋味に到る路があることに気附くのである。この意味において、甘味と「いき」と渋味とは直線的関係に立っている。そうして「いき」は肯定より否定への進路の中間に位《くらい》している{1}。
独断の「甘い」夢が破られて批判的知見に富んだ「いき」が目醒《めざ》めることは、「いき」の内包的構造のところで述べた。また、「いき」が「媚態のための媚態」もしくは「自律的遊戯」の形を取るのは「否定による肯定」として可能であることも言った。それは甘味から「いき」への推移について語ったにほかならない。しかるに、更に否定が優勢を示して極限に近づく時には「いき」は渋味に変ずるのである。荷風の「渋いつくりの女」は、甘味から「いき」を経て渋味に行ったに相違ない。歌沢《うたざわ》の或るもののうちに味わわれる渋味も畢竟《ひっきょう》、清元《きよもと》などのうちに存する「いき」の様態化であろう。辞書『言海』の「しぶし」の条下に「くすみていきなり」と説明してあるが、渋味が「いき」の様態化であることを認めているわけである。そうしてまた、この直線的関係において「いき」が甘味へ逆戻りをする場合も考え得る。すなわち「いき」のうちの「意気地」や「諦め」が存在を失って、砂糖のよ
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