「し、色里の諸わけをば知らぬ野暮でもあるまいし」という場合にも、異性的特殊性の公共圏内における価値判断の結果として、不粋と野暮とによって反価値性が示されている。
(四) 渋味[#「渋味」に傍点]―甘味[#「甘味」に傍点]は対他性から見た区別で、かつまた、それ自身には何らの価値判断を含んでいない。すなわち、対他性が積極的であるか、消極的であるかの区別が言表されているだけである。渋味は消極的対他性を意味している。柿が肉の中《うち》に渋味を蔵するのは烏《からす》に対して自己を保護するのである。栗が渋い内皮をもっているのは昆虫類に対する防禦《ぼうぎょ》である。人間も渋紙で物を包んで水の浸入に備えたり、渋面《じゅうめん》をして他人との交渉を避けたりする。甘味はその反対に積極的対他性を表わしている。甘える者と甘えられる者との間には、常に積極的な通路が開けている。また、人に取入ろうとする者は甘言を提供し、下心ある者は進んで甘茶を飲ませようとする。
対他性上の区別である渋味と甘味とは、それ自身には何ら一定の価値判断を担《にな》っていない。価値的意味はその場合その場合の背景によって生じて来るのである。「しぶかはにまあだいそれた江戸のみづ」の渋皮は反価値的のものである。それに反して、しぶうるかという場合、うるかは味の渋さを賞するものであるから、渋味は有価値的意味を表現している。甘味についても、たとえば、茶のうちでは玉露に「甘い優美な趣味」があるとか、政《まつりごと》よろしきを得れば天が甘露を降らすとか、または快く承諾することを甘諾《かんだく》といったりする時には、甘味は有価値的意味をもっている。しかるに、「あまっちょ」「甘ったるい物の言い方」「甘い文学」などいう場合には、甘味によって明らかに反価値性が言表されている。
さて、渋味と甘味とが対他性上の消極的または積極的の存在様態として理解される場合には、両者は勝義において異性的特殊性の公共圏に属するものとして考えられる。この公共圏内の対他的関係の常態は甘味である。「甘えてすねて」とか「甘えるすがた色ふかし」などいう言葉に表われている。そうして、渋味は甘味の否定である。荷風は『歓楽』の中で、「其の土地では一口に姐《ねえ》さんで通るかと思ふ年頃の渋いつくりの女」に出逢《であ》って、その女が十年前に自分と死のうと約束した小菊《こぎく》とい
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