まず「いき」の existentia を問うべきである。一言にして「えば「いき」の研究は「形相的」であってはならない。「解釈的」であるべきはずである{4}。
 しからば、民族的具体の形で体験される意味としての「いき」はいかなる構造をもっているか。我々はまず意識現象[#「意識現象」に傍点]の名の下《もと》に成立する存在様態としての「いき」を会得し、ついで客観的表現[#「客観的表現」に傍点]を取った存在様態としての「いき」の理解に進まなければならぬ。前者を無視し、または前者と後者との考察の順序を顛倒《てんとう》するにおいては「いき」の把握は単に空《むな》しい意図に終るであろう。しかも、たまたま「いき」の闡明《せんめい》が試みられる場合には、おおむねこの誤謬《ごびゅう》に陥っている。まず客観的表現を研究の対象として、その範囲内における一般的特徴を索めるから、客観的表現に関する限りでさえも「いき」の民族的特殊性の把握に失敗する。また客観的表現の理解をもって直ちに意識現象の会得と見做《みな》すため、意識現象としての「いき」の説明が抽象的、形相的に流れて、歴史的、民族的に規定された存在様態を、具体的、解釈的に闡明することができないのである。我々はそれと反対に具体的な意識現象から出発しなければならぬ。

 {1}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil III, Von alten und neuen Tafeln.
 {2}Boutroux, La psychologie du mysticisme(La nature et l'esprit, 1926, p. 177).
 {3}Bergson, 〔Essai sur les donne'es imme'diates de la conscience〕, 〔20e e'd〕., 1921, p. 124.
 {4}「形相的」および「解釈的」の意義につき、また「本質」と「存在」との関係については左の諸書参照。
    Husserl, 〔Ideen zu einer reinen Pha:nomenologie〕, 1913, I, S. 4, S. 12.
    Heidegger, Sein und Zeit, 1927, I, S. 37 f.
    Oskar Becker, M
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