交渉以外の性的関係は、早くも唯物主義と手を携《たずさ》えて地獄に落ちたのである。その結果として、理想主義を予想する「意気地」が、媚態をその全延長に亙《わた》って霊化して、特殊の存在様態を構成する場合はほとんど見ることができない。「女の許《もと》へ行くか。笞《むち》を忘るるな{11}」とは老婆がツァラトゥストラに与えた勧告であった。なお一歩を譲って、例外的に特殊の個人の体験として西洋の文化にも「いき」が現われている場合があると仮定しても、それは公共圏に民族的意味の形で「いき」が現われていることとは全然意義を異にする。一定の意味として民族的価値をもつ場合には必ず言語の形で通路が開かれていなければならぬ。「いき」に該当する語が西洋にないという事実は、西洋文化にあっては「いき」という意識現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所をもっていない証拠である。
かように意味体験としての「いき」がわが国の民族的存在規定の特殊性の下《もと》に成立するにかかわらず、我々は抽象的、形相的の空虚の世界に堕してしまっている「いき」の幻影に出逢う場合があまりにも多い。そうして、喧《やかま》しい饒舌《じょうぜつ》や空《むな》しい多言は、幻影を実有のごとくに語るのである。しかし、我々はかかる「出来合《できあい》」の類概念によって取交される flatus vocis に迷わされてはならぬ。我々はかかる幻影に出逢った場合、「かつて我々の[#「我々の」に傍点]精神が見たもの{12}」を具体的な如実の姿において想起しなければならぬ。そうして、この想起は、我々をして「いき」が我々のもの[#「我々のもの」に傍点]であることを解釈的に再認識せしめる地平にほかならない。ただし、想起さるべきものはいわゆるプラトン的実在論の主張するがごとき類概念の抽象的一般性ではない。かえって唯名論の唱道する個別的特殊の一種なる民族的特殊性である。この点において、プラトンの認識論の倒逆的転換が敢えてなされなければならぬ。しからばこの意味の想起《アナムネシス》の可能性を何によって繋《つな》ぐことができるか。我々の精神的文化を忘却のうちに葬り去らないことによるよりほかはない。我々の理想主義的非現実的文化に対して熱烈なるエロスをもち続けるよりほかはない。「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運
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