を殺して私利を貪るに汲々たり。嗚呼されば彼等を馳て悪徒たらしめたる者ハ果して誰ぞや。
(ハ)村中ノ健康者数百人ハ出て他郷に出稼し、壮丁ハ去テ兵役ニ就キ老弱者ノミ止リテ村ヲ守レルニ乗ジテ之ヲ侮リ、本年夏田植仕付を妨げて農繁時の人心を動乱せしめんとし、多数の官吏村中に横行して耕作を妨害したるにより、偶之を押へて警官に引渡すこと数回に及べども其効なく終に農事を妨げられ目下亦秋季麦作仕付を妨ぐるため、種々苦肉の奸策を廻らして人民を誘惑し以て農事を妨害したり。何故かゝる悪事を為すかと云ふに、若し麦蒔を為したる地なれバ其種物及肥料代価、手間代の払渡をせざる可らざるが故に、極力農事を妨げて買収価格の低減を計らんとする猾策に外ならず。
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而して此猾策ハ又村役場に出張せる吏員によりて用ひられたり。即ち村役場ハ本月七日付を以て谷中村堤防復旧工事ハ絶対に之を為さずとの引札を村内に配付し、暗に麦を蒔くは無益なり速に買収に応ずべしとの意味を示したり。村民之を見て大に驚き、堤防出来ざれバ麦を蒔くも収獲の見込なしとて麦を蒔かず、有志ハ其季節を失はんことを恐れ日夜奔走して麦蒔を勧誘せり。偶麦蒔を為すものある時は間牒の徒之を嘲笑して暗に妨害を試み、可憐なる良民を惑乱して明年の食料たるべき麦の蒔付を為さゞらしめ為めに豊沃の畑地ニ多くの空地を生ぜり。故に有志の勧誘によりて麦蒔を為すものも仕方なくして蒔付をすることなれバ、肥料を用ひざるものあり耕さずして蒔くものあり。其実状真に憐れむべし。
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噫、豊饒なる一美村ハ今や奸悪なる買収政略の犠牲となれり。愚直なる村民ハ今や正に其住家を売られ其土地を売られ其身を売られつゝあり。彼等村民ハ自ら売らんと欲して買はるゝに非ず。実に買ハんとする者のために売られたるなり。豈是れ憫れむべきの極に非ずや。是を以て吾等之を中央当局ニ訴へんとせバ非道其通路を扼して妨害を加へ其意を果さしめず、偶進んで東京に至るものありとするも居住の自由をも侵害せられて請願の目的を達するまで滞在する能ハざらしむ。吾等窮余の村民今や進んで之を訴へんとすれども其処なく、退て之を防がんとすれども其力なし。
謹で 至尊の詔勅を拝読するに「地方官ハ地方の重任に居り親しく民情を知る専ら衆庶の為に公益を図れ(明治八年五月二十日)」「百般の施設一に皆祖宗の遠猷に率由し以て臣民の康福を増し国家の隆昌を図らんとするに外ならず(明治二十六年十二月十日)」と在り、綸言炳乎として衆庶の公益、臣民の康福を擁護せらるゝに存す。然るに畏くも 至尊統治の下に在りて施政の職に当れる栃木県地方官及下僚官吏ハ 聖旨を遵奉して吾等村民の生命財産を保護するに力を竭くさず、却て至尊の赤子たる吾等村民を駆て死地に擠さんことに努めつゝあり。豈是れ不忠の臣に非ずや。曠職の吏に非ずや。夫れ人生の尊貴なる所以ハ至誠を尽くして其宜しきを行ふに在り。孔子ハ之を仁と名け基督ハ之を愛と称せり。二者名称の差ありと雖も其隣人を愛するの極致に至りてハ未だ曾て反するものに非ず。伏して惟るに至尊施政の大道亦実に仁愛に淵源するあるハ明々白々の事に属す。
吾等村民ハ日に同胞の毒手に誘惑せられて困頓窮厄に艱み、郷閭の地より誘拐せられて異村の山河に悲み、家庭ハ冷かに墳墓ハ乱るゝの惨状に沈淪して哭天慟地の血涙に咽ぶの時に当り、人道上残虐の不幸に遭逢せる者を救ハれ豊饒なる吾等の居村を保持して財産を奪掠せらるゝの災厄を免るゝを得バ、衷心の歓喜何物か之ニ如かん。
想ふに群馬は吾隣県にして地勢治水の利害を同ふし、谷中一村の興廃ハ直に海老瀬村の消長に関し近くハ更に群馬、埼玉、茨城三県の利害に影響すべし。夫れ境土隣接して河川其間に横はるの地にありてハ、沿岸の人民其利害を一にするものなれバ治水の責任ハ連帯の行為と相待ちて行政区劃の上に異別の関係を存すべきに非ず。果して然らば買収の毒手、谷中村に侵入して全村を攪乱し村民を誘惑し村落を滅亡せしめんとするに当りてハ、吾谷中村と利害興廃を一にせる群馬県ハ須らく自県の安寧を計り自治団体の保全を勉め、更に進んで地勢治水の関係を有せる谷中村を拯ふに吝なる可きにあらず。抑為政の対象ハ人民にあり。人民ハ是れ四海同胞なり。国家機関の分配上府県道庁の区別ありと雖も直に之を以て甲乙二県ハ独立して関せざるものと云ふを得ず。甲乙二県とハ単に名義上の区別にして人類同胞の区別にあらざるなり。若し甲県に於て人民を酷遇せバ乙県之を救ふに於て何の不可か之あらん。是れ正義人道より生ずる当然の義務なり。況や国法と牴触せざる範囲に於てをや。殊に況や二県利害を一にし興廃を共にすべき運命を有するに於てをや。是れ自村の危急日に加はり悪鬼白昼に横行して良民其業に安んぜず村中擾々として如何ともする能ハざるの時ニ当り、
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