非常歎願書
田中正造

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    非常歎願書

[#地から3字上げ]栃木県下都賀郡谷中村民
吾等の現住せる谷中村ハ今や奸悪なる買収の毒手ニ罹りて瀕死の境に彷徨しつゝあり。吾等茲に聊か従来の実情及現在の状態を開陳して非常歎願を敢てするの理由を言明せんと欲す。希くハ微衷を諒せられんことを。
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一、抑谷中村ハ古来天産に富み関東中其比を見ざる豊饒の沃土なり。二十年来鉱毒のために戸口漸々減少せしと雖も、現在尚ほ三百九十六の戸数と二千五百の人口とを有し全村の総価格一千五百万円以上に達せり。若し唯一の堤防修築を怠らざれバ前途洋々として頗る多望なるものあり。然るに此豊饒なる一美村ハ之を羨望するものゝ私慾を恣にせんがために当路の有司をして陰険なる策略を弄せしむるに至り、名を修築工事ニ借りて却て堤防を毀損崩壊して脆弱ならしめ、波除けの柳樹を濫伐して破堤を赤麻沼の水波に打たしめ、故らに堤防をして風浪に堪えざるものゝ如くし遷延徒に日月を費して其完成を計らず、年々全村をして水害を被らしめ以て村民の窮苦を来たせり。是れ実に明治三十五年以来の事に属す。退て想ふに谷中村買収の動機ハ公共の利益を計るがために非ずして実に鄙人の私慾を全ふせんがために外ならざるなり。是れ公然の事実と裏面の消息と相待ちて炳然又疑ひを容るゝの余地なし。更に次項他村との関係の下に之を弁明せん。
二、谷中村の地たる三面繞らすに河流を以てし、水利の益交通の便実に新来の客を驚かしむるものあり。東南水を隔てゝ茨城埼玉二県と境し西方渡良瀬川を挾みて群馬県に隣す。而して群馬県北海老瀬村ハ谷中村の堤内に在り田園連続して人家近接し地勢上全く同一村落の如くまた他県の観を存せず、両村の人民ハ日常往来して互に葬祭の事に参馳し金融其他土地の貸借労働人夫の交換等をなし其交情掬すべきものあり。是れ両村ハ北に赤麻沼の水地あり西に渡良瀬川の奔下するあり、若し河流一たび氾濫して堤防を破らば洪水ハ両村を襲ふて浮沈を共せざるべからず。されバ両村の人民ハ起臥共に苦楽を同じふするの運命を有するなり。何為ぞ親和交際せざるを得んや。故に従来海老瀬村の谷中村に対する同情ハ真に骨肉の如きものあり。左に少しく之を摘挙せん。
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(イ)明治三十二年二月渡良瀬川沿岸の人民鉱毒のために害せられて毎戸に許多の病者を生ぜり。然れども比年水害を被りて収獲を失ひ既に生計の料に乏しき者何ぞ病を養ふの余資あらんや。是に於て栃木群馬埼玉三県各村の人民二千六百人、当局に対して人命救護の請願を為さんと欲し相携へて上京せんとするの途次、群馬県川俣村に於て警官憲兵数百人其通路を扼して之を抑制するに逢ふや、端なくも官民の争闘を生じ人民七十余名警官数名の負傷あり。而して可憐の冤民ハ兇徒嘯集罪に擬せられ前橋の獄に繋がるゝもの六十余名、谷中川辺二村の人民亦縲紲の辱を受けたれども審理の末放免せられ犯罪の汚名を雪ぐを得たり。越へて明治三十四年十二月に至り各地の有志約二千名親しく来りて沿岸被害民を慰問し、谷中川辺二村の人民亦許多の金品寄贈の義挙に接せり。此時に当り海老瀬村松本英一氏ハ自宅を以て仮設臨時病室となし、東京の仏教徒ハ医師及薬価を寄贈し、谷中、利島、川辺、三村を始め其他村々の人民多数此救護の恩に浴せり。而して又東京の基督教徒ハ芝区芝口に病室を設けて多数の患者を収容し、牛込大久保の慈愛館を開きて沿岸数十名の児童を養育し、各貲財を投じて救護の事に尽くせり。蓋し艱難相扶け窮厄相救ふは愛情の発露にして実に人道の至極とする処なり。殊に茨城の古河町新合村、埼玉の川辺利島の二村、及群馬の海老瀬村、我谷中村等ハ互に河流を抱きて隣接するが故に、地勢治水の関係上苦楽を共にするを以て常に相思相愛の情味を脱する能はざるもの存すればなり。夫れ一村を失ふハ一村の災厄に止まらず、小にしてハ比隣の数百村大にしてハ一国の災厄と為るなり。故に若し一朝谷中村を失はゞ海老瀬村亦其存在を危うせざるを得ず。両村相互の関係斯の如く深し。海老瀬村の谷中村に対する同情決して偶然にあらず。
(ロ)本年八月十日小洪水なりしも海老瀬村有志は谷中村堤防字移堤の危険を慮り自ら人夫を出して之を防がんとし同所に至るや、栃木県庁よりの間牒数名、堤上ニ在りて海老瀬村の人夫に対し「此小洪水に水防に来るハ痴愚なり」と放言し大に嘲罵を加へたり。而して同月十七日大雨あり、翌十八日に至り海老瀬村人夫は前日の暴言を受けたるにも拘らず多数相携へ
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