うに、東京府を鑛毒地にしないやうに、水害を蒙らせないやうにやつて居るかと思へば又一方山で木を伐つて居る、此利根郡の利根官林は名義は四千町でございますが、四千町に止らぬ、之れが爲めに利根川が又非常に荒れを來すのだ、現に渡良瀬川の方がそれです。
△豪い經濟家[#「豪い經濟家」に丸傍点]
渡良瀬川と云ふ方も、即ち水源の山へ木を植へる、利根の下流の河身改良をする渡良瀬川も是から人民が安心する樣になるかと思へば、今迄鑛毒地方ではあるけれども、堤防を能く築けば鑛毒の關係のない村は拾つて取つて仕舞ふ方が宜いと云ふので今度は村を取ることを始めた、之れは酷い、去る明治三十二年に計畫して埼玉縣北埼玉郡利島村河[#「河」に「〔川〕」の注記]邊村と云ふ二ヶ村を買收することを埼玉縣會に於いて知事が原案を出し掛けたことがある、それから三十二年に二ヶ村に村債を起すことを勸めたことがある、栃木縣谷中村に村債を起すことも勸め、群馬縣西矢[#「矢」に「〔谷〕」の注記]田村外四ヶ村に借金をして堤防を築くが宜いと云ふことを勸めたのが三十二年で、それから引續いて三十五年に暴風雨に遭ふて河が荒れますと、それを機會として埼玉の二ヶ村を買收する、栃木縣の谷中村を買收することが始つた、遂に之れが三十八年に至つて谷中村を買收することになつた、埼玉縣では村民が買收は怪しからぬと云ふので跳付けて仕舞いましたが、栃木の谷中村の者は其氣力がなくして愚圖愚圖して居つて其村を取られることになりました、始りは鑛毒問題から起つて大部分河川が荒れた、河川が荒れたから國會議員其他政府の人々も將來の豫防として四百萬圓を掛けて、一方は大層世の中に對して將來の畫策が宜いかと思ふと、裏では益々同じやうなことを繰返してやつて居る、其中で甚しきは人民の住んで居る村、最も天産力に富んで居つて作物の出來る村に色々名目を付けて其人民を追出して其村を取つて仕舞ふ、斯う云ふことにまで仕事が進んで來て居る、さうなりますと云ふと是から先はどうであると云へば、利根川は荒れた、關八州の土地は今日迄渡良瀬川のみならず利根川も荒れる、村の數は減る、其國庫の收入金はどうだと云ふと一萬千百圓、四千圓、一萬五千百圓の收入の爲に渡良瀬川通りの村々は潰れ、且つ村を奪取られると云ふことで、利根川は荒れ關東中央は荒廢に歸すると云ふ有樣で、今日迄の金額で見ると一萬千百圓の國庫收入の爲に八百四十三萬六千圓の國庫及地方の支出が明に見へる、其上に金に積れぬ災害は是から將來何程に至るか分らぬ、之は決して鑛毒の御話をせずに唯山が荒れた河が荒れたと云ふ丈國庫の收入と支出、縣の費用や何かの收入支出の一部丈けの御話を申上げた、斯樣な譯でがすから中々どうも今日の經濟と云ふ者は豪い經濟家が居りますからどう云ふ風にやつて拔けますか、私は眞面目でやれば斯う云ふ亂暴はしないでも出來る、誰にも出來る、こんな損害をしないでも誰にも出來る、經濟が、斯う云ふ風に亂れて居るのを以て見ますと、二十億と云ふ借金を仕拔けてやつて往くと云ふのはどう云ふ技倆でやつて往くのですか、定めし豪い腕前の人があるでがせうが、それよりも自分は諸君に御訴へ申すことの急がしいことを申上げる、斯樣な次第から來た結果何事を爲しても日本國民は柔和にしてどう云ふことをしても默許して居る人民であるから、益々錢儲けをするに宜しい、遂に日本始つて以來未だ曾て例を見ない所の、人口の四百以上住んで居る天産力の作物の能く出來る村を金で之を買上げて取つて仕舞ふ、個人の人がなさるならば御勝手次第だけれども、政府と云ふものが左樣なことをすると云ふに至つては何の例にも何の法律にもないことだらうと思ふ、果して法律にないことで、村を買取るのもソツクリ人民を置いて其村を買ふと云ふのでない、其人民を放逐して仕舞ふ、人民を移すと云ふことも四百名の人民を何と云ふ所に持つて往つて茲に地盤を與へて四百名の者をソツクリ團體力を壞さずに居るのでない、甲の村を乙の村に移すと云ふのではない、四百五十名の人民を四方八方に追散して仕舞ふ、して見れば一ヶ村が正に潰れて仕舞ふ、此村を潰す費用を四十八萬圓と云ふ金を掛けた、さうして四十八萬圓と云ふ金を掛けて村を買取る、買取るのではない、買取ると云ふのは名で、四十八萬圓と云ふ運動費だ、四十八萬圓の金を掛けて此村の人民を放逐して仕舞ふ、人民を窘め散して追出して仕舞ふ、其費用が四十八萬圓であつて、決して四十八萬圓と云ふ金を以て谷中村を栃木縣廳が取上げるなどゝ云ふやうなものでない。
△谷中村買收問題[#「谷中村買收問題」に丸傍点]
世の中では能く谷中村買收問題は四十八萬圓で人民の所有地を買ふものだと云つて居る、大間違で、四十八萬圓と云ふ金は幾らか田畑に渡すが、此金の性質は實際人民をして流離顛沛乞食たらしめる運動費である、斯樣なことが世の中に在る、唯流離顛沛乞食たらしめる運動費と申上げては御分りになりますまいから少しく理由を申上げますが、一體人民が何故にタツタ四十八萬兩許りの金で其物を賣るかと申しますと、是には種々なる御話がございまして、一體此村の價と云ふものはどうしても現在ある所のものは七百萬圓のものはある、此の七百萬圓と云ふ品は何百年の間に拵へたものかと云ひますと、四百年からのものである、四百年の間に人民が段々積立てゝ來た、そこに殘つて居るものが今日現場で七百萬圓以上が物はある、此七百萬圓の物を拵へるのには四百年の星霜を經て居りますから何程掛つて居るか分らぬ、現に此の村で一ヶ村を守る堤防費も、新築するに三百五十萬圓掛る、其外田畑宅地立木容易なものでない、開墾費もある、之を一倍としても千五百萬兩のものはある、千五百萬圓は今日の村の總收入額を一分の利として割出して出る所のものです、斯樣な譯です、さうでがせう、今日の戸數は四百五十戸ある、四百五十戸ある村を拵へるのでがすから二三百萬圓で出來るものでない、されば現物が七百萬兩が物があるから七百萬兩で政府が買つたならば穩當なやうだ、一寸考へると七百萬兩で賣れば宜いやうでございます、七百萬兩が物があれば七百萬兩で賣つたら宜からうと云ふと大變經濟上のことを知らぬ人民は大喜びで、七百萬兩掛けた甲の村を捨てゝ乙の新村を造るに七百萬兩のものが出來るかと云ふと、夫は出來ない、前の七百萬兩は唯今申しました通り四百年間掛つて段々と積立つて殘つたものが七百萬兩である、此七百萬兩で以て新規に拵へやうと云つたら迚も前の谷中村丈のものが出來るものでない、だから七百萬兩では引合はぬから其村の總收入の現在作物の取れる收入の利益の一分まで漕付けると千五百萬兩で濟むから、假に政府として千五百萬兩で以て人民を移すとどうなるかと云へば、甲村の人民を乙へ移して原野を開いて拵へると千五百萬兩掛けて七百萬兩殘る、之は餘程器用に往つてさうです、中々北海道の開墾はこんな風に往くものでありませぬが、器用に往つたら千五百萬兩掛けたら七百五十萬兩の物が殘るかと云ふ位、是位の物を僅か四十八萬兩で買潰すと云ふことは買ふのではない、村を取るの運動費に過ぎないのである、唯の四十八萬圓、其四十八萬兩も公平に使ふかと云ふと不公平極つた使ひ方で、七萬五千兩を以て排水器を買つたと云ふから現在人民に與へる金は減じて仕舞ふ、斯樣な譯で、四十八萬兩を以て人民を四方に流離顛沛させて、僅宛を移して居りますけれども、大抵僅の移住費を與へて四方に追散して仕舞つた、何故にさう云ふ風に人民が云ふことを聞くか、餘り意氣地のない人民でないか、斯う諸君の御輕蔑もございませうけれども、之は深く謀つたことでがして、谷中村のことは特に今日御訴へ申したいので、少々の所でも御訴へ申したいので今日出ましたから暫くの間御猶豫を願つて御話したいでございます。
△先づ衣食金融の道を絶つ[#「先づ衣食金融の道を絶つ」に丸傍点]
谷中村を買上げると云ふことは三十八年即ち昨年のことです、然るに三十五年堤防が切れたのを幸として堤防を拵へずに居りました、それから當年迄五ヶ年間堤防がございませぬから、水がドツサリ這入つて作物が取れない、それでございますから此間食物がない、非常な借金をしたり艱難辛苦してやつと生活を繋いで居る、所が五年間に少々借金が出來た、所で三十八[#「八」に「〔七〕」の注記]年に至つて縣會が谷中村を買收すると云ふやうな意味の決議をした、さうして三十八年に着手しましたけれども恰も三十五年から人民を水責兵糧攻にして困らして置いて、縣會に於て夜分十二時頃に、何を話したか祕密會で決めたことがある、それが買收の事實である、之を新聞に廣告して地方の新聞に出して仕舞つた、畑は三十兩田は二十八兩と云ふ値を付けた、墓場は一坪一兩、斯ふ云ふ値を付けて新聞に出しましたから最早賣買が止つて仕舞つた、直ぐ隣村の田地が二三百兩する所へ、斯樣な値段で廣告して仕舞つた、だから其以上に高く買ふものはなし、其値でも他村の人は決して田地を買ひませぬ、縣廳で買ふとなつた地面でありますから他村の者は買ひませぬ、殆ど賣買を禁じたるが如く、さうして金融を絶つて仕舞つた、それから一方は借金で攻め尚引續いて水で責めた、斯樣なことで衣食を絶つて金融の道を塞いで一方で此處に來い買つてやると云ふことを始めた、斯樣な譯でがすから人民は迚も其處に居られなくなつた、引續いて三十八年迄四年間食べる物もなし金融の道は塞がつた、仕方がないから殆ど之は逃出すので、逃出すに付いて何程なりとも錢を持つて逃げたい、田地を持つて遁げることも家屋敷を背負つて遁げることも出來ぬから、何程でも錢があれば御授け次第の錢を貰つて餘所へ往きたいと云ふことになつた。
△流言[#「流言」に丸傍点]、強迫[#「強迫」に丸傍点]、誘惑[#「誘惑」に丸傍点]
それで其有樣は實に非常な有樣で、其位に困つて居る所へ以て往つて昨年の八月以來谷中村を買上げると云ふことになりますと云ふと又一層酷いことをやつた、どう云ふことをしたかと申しますと、色々の商人を村へ入れました、是が流言家である、先づ古道具を買ふ商人を村の中に凡そ百人も入れました、道具を賣る、此方では近い中に家を打壞されるさうだから道具を早く賣らなければ安くなるから早く御賣なさい、縣廳で地面を買ひ家は賣るものも賣らぬものも皆打壞すさうだから早く御賣りなさいと云つて、百人も這入つて運動する、それから屋敷の木を御賣りなさい、庭園の楓の木でも梅の木でも櫻の木でも皆薪にして仕舞ふ、斯樣な譯で木を賣れ道具を賣れと云ふ、不都合千萬な話、そこに至つて東京府とか他地方の人民であれば無禮なことを云ふなと申しますが、そこが柔和な人民でがすから木を賣れ道具を賣れと云へば、木や道具を能く賣つて皆屋敷の木を伐つて仕舞ふ、斯樣なことで米もなし食べるものもなし困つて居る所へ、木を賣れと云ふから木を持つて居る者は木を賣る、それが皆運動屋で、鷄も賣れと云ふ、鷄も必要がありますまいから御賣りなさい、船も此處に居なければ要らぬから御賣りなさいと云ふ、種々なる商人を數百人入れてさうして人民を狂亂させて仕舞つた、それから村の中へ七人と云ふ惡黨を入れて是等に非常な流言を放たして、村中を驅け歩いて、人民を騷がして歩く、此商人が色々騷がして歩く爲に人民は發狂した如くなつて居ります、さうなくても三四年食物がなく借金をして居る、金主の方は金貸の方へ内通をして居つて金貸が非常に督促をする、三百代言を何百人と入れてサア寄越せと云ふ、田地を抵當にしても取る人がない、賣らうと云つても買手がない、金融の道を塞ぎ食べるものを奪ひ、堤防は此村には永世築かないと云ふ亂暴なことを書いたものまで――公文書まで發して人民を迷はしたのでがすから、人民が發狂するのも無理はない、殆ど狂人の如くなつて村を逃出す、逃出すに付いて何程でも錢が欲しいと云ふ所へ僅の錢を與へるに過ぎぬ、之が丁度江戸城の亡びます時に私が江戸に居りましたが、旗本なる者が江戸城を逃出して一は比叡山に立籠り、一方は流山邊に逃げて今市日光に戰つて會津へ落ちて往つて死んだ、
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