大つごもり
樋口一葉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)師走《しはす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十二|尋《ひろ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]處《そこ》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゆう/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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(上)
井戸は車にて綱の長さ十二|尋《ひろ》、勝手は北向きにて師走《しはす》の空のから風ひゆう/\と吹ぬきの寒さ、おゝ堪えがたと竈《かまど》の前に火なぶりの一分は一時にのびて、割木《わりき》ほどの事も大臺《おほだい》にして叱りとばさるゝ婢女《はした》の身つらや、はじめ受宿《うけやど》の老媼《おば》さまが言葉には御子樣がたは男女《なんによ》六人、なれども常住内にお出あそばすは御總領と末お二人、少し御新造《ごしんぞ》は機嫌かいなれど、目色顏色呑みこんで仕舞へば大した事もなく、結句おだてに乘る質《たち》なれば、御前の出樣一つで半襟半がけ前垂の紐にも事は缺くまじ、御身代は町内第一にて、その代り吝《しは》き事も二とは下らねど、よき事には大旦那が甘い方ゆゑ、少しのほまち[#「ほまち」に傍点]は無き事も有るまじ、厭やに成つたら私の所《とこ》まで端書一枚、こまかき事は入らず、他所《よそ》の口を探せとならば足は惜しまじ、何れ奉公の祕傳は裏表と言ふて聞かされて、さても恐ろしき事を言ふ人と思へど、何も我が心一つで又この人のお世話には成るまじ、勤め大事に骨さへ折らば御氣に入らぬ事も無き筈と定めて、かゝる鬼の主《しゆう》をも持つぞかし、目見えの濟みて三日の後、七歳になる孃さま踊りのさらひに午後よりとある、其支度は朝湯にみがき上げてと霜氷る曉、あたゝかき寢床の中より御新造灰吹きをたゝきて、これ/\と、此詞《これ》が目覺しの時計より胸にひゞきて、三言とは呼ばれもせず帶より先に襷がけの甲斐/\しく、井戸端に出れば月かげ流しに殘りて、肌《はだへ》を刺すやうな風の寒さに夢を忘れぬ、風呂は据風呂にて大きからねど、二つの手桶に溢るゝほど汲みて、十三は入れねば成らず、大汗に成りて運びけるうち、輪寶《りんぼう》のすがりし曲《ゆが》み齒《ば》の水ばき下駄、前鼻緒のゆる/\に成りて、指を浮かさねば他愛の無きやう成し、その下駄にて重き物を持ちたれば足もと覺束なくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸がはにて向ふ臑《ずね》したゝかに打ちて、可愛や雪はづかしき膚《はだ》に紫の生々しくなりぬ、手桶をも其處に投出して一つは滿足成しが一つは底ぬけに成りけり、此桶《これ》の價《あたひ》なにほどか知らねど、身代これが爲につぶれるかの樣に御新造の額際に青筋おそろしく、朝飯のお給仕より睨まれて、其日一日物も仰せられず、一日おいてよりは箸の上げ下しに、此家《このや》のiは無代《たゞ》では出來ぬ、主の物とて粗末に思ふたら罰が當るぞえと明け暮れの談義、來る人毎に告げられて若き心には恥かしく、其後は物ごとに念を入れて、遂ひに麁想《そさう》をせぬやうに成りぬ、世間に下女つかふ人も多けれど、山村ほど下女の替る家は有るまじ、月に二人は平常《つね》の事、三日四日に歸りしもあれば一夜居て逃出しもあらん、開闢《かいびやく》以來を尋ねたらば折る指に彼の内儀さまが袖口おもはるゝ、思へばお峰は辛棒もの、あれに酷く當たらば天罰たちどころに、此後は東京廣しといへども、山村の下女に成る物はあるまじ、感心なもの、美事の心がけと賞めるもあれば、第一|容貌《きりやう》が申分なしだと、男は直きにこれを言ひけり。
秋より只一人の伯父が煩ひて、商賣の八百や店もいつとなく閉ぢて、同じ町ながら裏屋住居に成しよしは聞けど、六づかしき主を持つ身の給金を先きに貰へば此身は賣りたるも同じ事、見舞にと言ふ事も成らねば心ならねど、お使ひ先の一寸の間とても時計を目當にして幾足幾町と其しらべの苦るしさ、馳せ拔けても、とは思へど惡事千里といへば折角の辛棒を水泡《むだ》にして、お暇ともならば彌々《いよ/\》病人の伯父に心配をかけ、痩世帶に一日の厄介も氣の毒なり、其内にはと手紙ばかりを遣りて、身は此處に心ならずも日を送りける。師走の月は世間一躰物せわしき中を、こと更に選《え》らみて綾羅《きら》をかざり、一昨日出そろひしと聞く某の芝居、狂言も折から面白き新物の、これを見のがしてはと娘共の騷ぐに、見物は十五日、珍らしく家内中《うちゞう》との觸れに成けり、此お供を嬉しがるは平常《つね》のこと、父母なき後は唯一人の大切な人が、病ひの床に見舞ふ事もせで、物見遊山に歩くべき身ならず、御機嫌に違ひたらば夫れまでとして遊びの代りのお暇を願ひしに流石は日頃の勤めぶりもあり、一日すぎての次の日、早く行きて早く歸れと、さりとは氣まゝの仰せに有難うぞんじますと言ひしは覺えで、頓ては車の上に小石川はまだかまだかと鈍《もど》かしがりぬ。
初音町《はつねちやう》といへば床しけれど、世をうぐひすの貧乏町ぞかし、正直安兵衞とて神は此頭に宿り給ふべき大藥罐の額ぎはぴか/\として、これを目印に田町より菊坂あたりへかけて、茄子《なすび》大根の御用をもつとめける、薄元手を折かへすなれば、折から直《ね》の安うて嵩《かさ》のある物より外は棹《さを》なき舟に乘合の胡瓜、苞《つと》に松茸の初物などは持たで、八百安が物は何時も帳面につけた樣なと笑はるれど、愛顧《ひいき》は有がたきもの、曲りなりにも親子三人の口をぬらして、三之助とて八歳《やつ》になるを五厘學校に通はするほどの義務《つとめ》もしけれど、世の秋つらし九月の末、俄かに風が身にしむといふ朝、神田に買出して荷を我が家までかつぎ入れると其まゝ、發熱につゞいて骨病みの出しやら、三月ごしの今日まで商ひは更なる事、段々に喰べへらして天秤まで賣る仕義になれば、表店《おもてだな》の活計《くらし》たちがたく、月五十錢の裏屋に人目の恥を厭ふべき身ならず、又時節が有らばとて引越しも無慘や車に乘するは病人ばかり、片手に足らぬ荷をからげて、同じ町の隅へと潜みぬ。お峰は車より下りて※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]處《そこ》此處《こゝ》と尋ぬるうち、凧紙風船などを軒につるして、子供を集めたる駄菓子やの門に、もし三之助の交じりてかと覗けど、影も見えぬに落膽《がつかり》して思はず往來《ゆきき》を見れば、我が居るよりは向ひのがはを痩ぎすの子供が藥瓶もちて行く後姿、三之助よりは丈も高く餘り痩せたる子と思へど、樣子の似たるにつか/\と驅け寄りて顏をのぞけば、やあ姉さん、あれ三ちやんで有つたか、さても好い處でと伴なはれて行くに、酒やと芋やの奧深く、溝板がた/\と薄くらき裏に入れば、三之助は先へ驅けて、父《とゝ》さん、母《かゝ》さん、姉さんを連れて歸つたと門口より呼び立てぬ。
何お峰が來たかと安兵衞が起上れば、女房《つま》は内職の仕立物に餘念なかりし手をやめて、まあ/\是れは珍らしいと手を取らぬばかりに喜ばれ、見れば六疊一間に一間の戸棚只一つ、箪笥長持はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸燒の四角なるを同じ形《なり》の箱に入れて、これがそも/\此家の道具らしき物、聞けば米櫃も無きよし、さりとは悲しき成ゆき、師走の空に芝居みる人も有るをとお峰はまづ涙ぐまれて、まづ/\風の寒きに寢てお出なされませ、と堅燒に似し薄蒲團を伯父の肩に着せて、さぞさぞ澤山《たんと》の御苦勞なさりましたろ、伯母樣も何處やら痩せが見えまする、心配のあまり煩ふて下さりますな、夫でも日増しに快《よ》い方で御座んすか、手紙で樣子は聞けど見ねば氣にかゝりて、今日のお暇を待ちに待つて漸との事、何家などは何うでも宜ござります、伯父樣御全快にならば表店《おもて》に出るも譯なき事なれば、一日も早く快く成つて下され、伯父樣に何ぞと存じたれど、道は遠し心は急く、車夫《くるまや》の足が何時より遲いやうに思はれて、御好物の飴屋が軒も見はぐりました、此金《これ》は少々なれど私が小遣の殘り、麹町の御親類よりお客の有し時、その御隱居さま寸白《すばく》のお起りなされてお苦しみの有しに、夜を徹してお腰をもみたれば、前垂でも買へとて下された、それや、これや、お家は堅けれど他處《よそ》よりのお方が贔屓になされて、伯父さま喜んで下され、勤めにくゝも御座んせぬ、此巾着も半襟もみな頂き物、襟は質素《ぢみ》なれば伯母さま懸けて下され、巾着は少し形《なり》を換へて三之助がお辨當の袋に丁度宜いやら、夫れでも學校へは行きますか、お清書が有らば姉にも見せてと夫れから夫れへ言ふ事長し。七歳のとしに父親得意場の藏普請に、足場を昇りて中ぬりの泥鏝《こて》を持ちながら、下なる奴に物いひつけんと振向く途端、暦に黒ぼしの佛滅とでも言ふ日で有しか、年來馴れたる足場をあやまりて、落たるも落たるも下は敷石に模樣がへの處ありて、掘りおこして積みたてたる切角に頭腦したゝか打ちつけたれば甲斐なし、哀れ四十二の前厄と人々後に恐ろしがりぬ、母は安兵衞が同胞《きやうだい》なれば此處に引取られて、これも二年の後はやり風俄かに重く成りて亡せたれば、後は安兵衞夫婦を親として、十八の今日まで恩はいふに及ばず、姉さんと呼ばるれば三之助は弟のやうに可愛く、此處へ此處へと呼んで背を撫で顏を`いて、さぞ父さんが病氣で淋しく愁らかろ、お正月も直きに來れば姉が何ぞ買つて上げますぞえ、母さんに無理をいふて困らせては成りませぬと教ゆれば、困らせる處か、お峰聞いて呉れ、歳は八つなれど身躰も大きし力もある、我《わし》が寐てからは稼ぎ人《て》なしの費用《いりめ》は重なる、四苦八苦見かねたやら、表の鹽物やが野郎と一處に、蜆《しゞみ》を買ひ出しては足の及ぶだけ擔ぎ廻り、野郎が八錢うれば十錢の商ひは必らずある、一つは天道さまが奴の孝行を見徹してか、兎なり角なり藥代は三が働き、お峰ほめて遣つて呉れとて、父は蒲團をかぶりて涙に聲をしぼりぬ。學校は好きにも好きにも遂ひに世話をやかしたる事なく、朝めし喰べると馳け出して三時の退校《ひけ》に道草のいたづらした事なく、自慢では無けれど先生さまにも褒め物の子を、貧乏なればこそ蜆を擔がせて、此寒空に小さな足に草鞋をはかせる親心、察して下されとて伯母も涙なり。お峰は三之助を抱きしめて、さてもさても世間に無類の孝行、大がらとても八歳《やつ》は八歳、天秤肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひは出來ぬかや、堪忍して下され、今日よりは私も家に歸りて伯父樣の介抱|活計《くらし》の助けもしまする、知らぬ事とて今朝までも釣瓶の繩の氷を愁《つ》らがつたは勿躰ない、學校ざかりの年に蜆を擔がせて姉が長い着物きて居らりようか、伯父さま暇を取つて下され、私は最早奉公はよしまするとて取亂して泣きぬ。三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを、見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目あらはに衣《きぬ》破《や》れて、此肩《これ》に擔ぐか見る目も愁《つ》らし、安兵衞はお峰が暇を取らんと言ふに夫れは以ての外、志しは嬉しけれど歸りてからが女の働き、夫れのみか御主人へは給金の前借もあり、それッ、と言ふて歸られる物では無し、初奉公《うひぼうこう》が肝腎、辛棒がならで戻つたと思はれても成らねば、お主大事に勤めて呉れ、我が病も長くは有るまじ、少しよくば氣の張弓、引つゞいて商ひもなる道理、あゝ今半月の今歳が過れば新年《はる》は好き事も來たるべし、何事も辛棒/\、三之助も辛棒して呉れ、お峰も辛棒して呉れとて涙を納めぬ。珍らしき客に馳走は出來ねど好物の今川燒、里芋の煮ころがしなど、澤山たべろよと言ふ言葉が嬉し、苦勞はかけまじと思へど見す見す大晦日に迫りたる家の難義、胸に痞《つか》への病は癪にあらねどそも/\床に就きたる時、田町の高利かしより三月しばりとて十圓かりし、一圓五拾錢は天利
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