とて手に入りしは八圓半、九月の末よりなれば此月は何うでも約束の期限なれど、此中にて何となるべきぞ、額を合せて談合の妻は人仕事に指先より血を出して日に拾錢の稼ぎも成らず、三之助に聞かするとも甲斐なし、お峰が主は白金《しろかね》の臺町《だいまち》に貸長屋の百軒も持ちて、あがり物ばかりに常綺羅《じやうきら》美々しく、我れ一度お峰への用事ありて門まで行きしが、千兩にては出來まじき土藏の普請、羨やましき富貴《ふうき》と見たりし、その主人に一年の馴染、氣に入りの奉公人が少々の無心を聞かぬとは申されまじ、此月末に書かへを泣きつきて、をどりの一兩二分を此處に拂へば又三月の延期《のべ》にはなる、斯くいはゞ慾に似たれど、大道餅買ふてなり三ヶ日の雜煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし、晦日までに金二兩、言ひにくゝ共この才覺たのみ度よしを言ひ出しけるに、お峰しばらく思案して、よろしう御座んす慥かに受合ひました、むづかしくはお給金の前借にしてなり願ひましよ、見る目と家内《うち》とは違ひて何處にも金錢の埓は明きにくけれど、多くでは無し夫れだけで此處の始末がつくなれば、理由《わけ》を聞いて厭やは仰せらるまじ、夫れにつけても首尾そこなうては成らねば、今日は私は歸ります、又の宿下りは春永、その頃には皆々うち寄つて笑ひたきもの、とて此金《これ》を受合ける。金は何として越《おこ》す、三之助を貰ひにやろかとあれば、ほんに夫れで御座んす、常日《つね》さへあるに大晦日といふては私の身に隙はあるまじ、道の遠きに可憐さうなれど、三ちやんを頼みます、晝前のうちに必らず必らず支度はして置まするとて、首尾よく受合ひてお峰は歸りぬ。
(下)
石之助とて山村の總領息子、母の違ふに父親《てゝおや》の愛も薄く、これを養子に出して家督《あと》は妹娘の中にとの相談、十年の昔より耳に挾みて面白からず、今の世に勘當のならぬこそをかしけれ、思ひのまゝに遊びて母が泣きをと父親の事は忘れて、十五の春より不了簡をはじめぬ、男振にがみありて利發らしき眼ざし、色は黒けれど好き樣子《ふう》とて四隣《あたり》の娘どもが風説《うはさ》も聞えけれど、唯亂暴一途に品川へも足は向くれど騷ぎは其座|限《ぎ》り、夜中に車を飛ばして車町《くるまちやう》の破落戸《ごろ》がもとをたゝき起し、それ酒かへ肴と、紙入れの底をはたき無理を徹すが道樂なりけり、到底《とても》これに相續は石油藏へ火を入れるやうな物、身代|烟《けふ》りと成りて消え殘る我等何とせん、あとの兄弟も不憫と母親、父に讒言《ざんげん》の絶間なく、さりとて此放蕩子《これ》を養子にと申受る人此世にはあるまじ、とかくは有金の何ほどを分けて、若隱居の別戸籍にと内々の相談は極まりたれど、本人うわの空に聞流して手に乘らず、分配金は一萬、隱居扶持月々おこして、遊興に關を据ゑず、父上なくならば親代りの我れ、兄上と捧げて竈の神の松一本も我が託宣を聞く心ならば、いかにもいかにも別戸の御主人に成りて、此家の爲には働かぬが勝手、それ宜しくば仰せの通りになりましよと、何うでも嫌やがらせを言ひて困らせける。去歳《こぞ》にくらべて長屋もふゑたり、所得は倍にと世間の口より我が家の樣子を知りて、をかしやをかしや、其やうに延ばして誰が物にする氣ぞ、火事は燈明皿よりも出る物ぞかし、總領と名のる火の玉がころがるとは知らぬか、やがて卷きあげて貴樣たちに好き正月をさせるぞと、伊皿子《いさらご》あたりの貧乏人を喜ばして、大晦日を當てに大呑みの場處もさだめぬ。
それ兄樣のお歸りと言へば、妹ども怕《こは》がりて腫れ物のやうに障るものなく、何事も言ふなりの通るに一段と我がまゝをつのらして、炬燵に兩足、醉ざめの水を水をと狼藉はこれに止めをさしぬ、憎くしと思へど流石に義理は愁《つ》らき物かや、母親かげの毒舌をかくして風引かぬやうに小抱卷何くれと枕まで宛がひて、明日の支度のむしり田作《ごまめ》、人手にかけては粗末になる物と聞えよがしの經濟を枕もとに見しらせぬ。正午《ひる》も近づけばお峰は伯父への約束こゝろもと無く、御新造が御機嫌を見はからふに暇も無ければ、僅かの手すきに頭《つむ》りの手拭ひを丸めて、此ほどより願ひましたる事、折からお忙がしき時心なきやうなれど、今日の晝る過ぎにと先方へ約束のきびしき金とやら、お助けの願はれますれば伯父の仕合せ私の喜び、いついつまでも御恩に着まするとて手をすりて頼みける、最初《はじめ》いひ出し時にやふや[#「にやふや」に傍点]ながら結局《つまり》は宜しと有し言葉を頼みに、又の機嫌むつかしければ五月蠅いひては却りて如何と今日までも我慢しけれど、約束は今日と言ふ大晦日のひる前、忘れてか何とも仰せの無き心もとなさ、我れには身に迫りし大事と言ひにくきを我慢して斯くと申ける、御新造は驚きたるやうの惘《あき》れ顏して、夫れはまあ何の事やら、成ほどお前が伯父さんの病氣、つゞいて借金の話しも聞ましたが、今が今私しの宅《うち》から立換へようとは言はなかつた筈、それはお前が何ぞの聞違へ、私は毛頭《すこし》も覺えの無き事と、これが此人の十八番とはてもさても情なし。
花紅葉うるはしく仕立し娘たちが春着の小袖、襟をそろへて褄《つま》を重ねて、眺めつ眺めさせて喜ばんものを、邪魔ものゝ兄が見る目うるさく、早く出てゆけ疾《と》く去《い》ねと思ふ思ひは口にこそ出さねもち前の疳癪したに堪えがたく、智識の坊さまが目に御覽じたらば、炎につゝまれて身は黒烟りに心は狂亂の折ふし、言ふ事もいふ事、金は敵藥ぞかし、現在うけ合ひしは我れに覺えあれど何の夫れを厭ふ事かは、大方お前が聞ちがへと立きりて、烟草《たばこ》輪にふき私は知らぬと濟しけり。
ゑゝ大金でもある事か、金なら二圓、しかも口づから承知して置きながら十日とたゝぬに耄《まう》ろくはなさるまじ、あれ彼の懸け硯の引出しにも、これは手つかずの分と一ト束、十か二十か悉皆《みな》とは言はず唯二枚にて伯父が喜び伯母が笑顏、三之助に雜煮のはしも取らさるゝと言はれしを思ふにも、どうでも欲しきは彼の金ぞ、恨めしきは御新造とお峰は口惜しさに物も言はれず、常々をとなしき身は理屈づめにやり込る術もなくて、すご/\と勝手に立てば正午の號砲《どん》の音たかく、かゝる折ふし殊更胸にひゞくものなり。
お母《はゝ》さまに直樣《すぐさま》お出下さるやう、今朝よりのお苦るしみに、潮時は午後、初産なれば旦那とり止めなくお騷ぎなされて、お老人《としより》なき家なれば混雜お話しにならず、今が今お出でをとて、生死の分目といふ初産に、西應寺の娘がもとより迎ひの車、これは大晦日とて遠慮のならぬ物なり、家のうちには金もあり、放蕩《のら》どのが寐ては居る、心は二つ、分けられぬ身なれば恩愛の重きに引かれて、車には乘りけれど、かゝる時氣樂の良人が心根にくゝ、今日あたり沖釣りでも無き物をと、太公望がはり合ひなき人をつく/″\と恨みて御新造いでられぬ。
行きちがへに三之助、此處と聞きたる白金臺町、相違なく尋ねあてゝ、我が身のみすぼらしきに姉の肩身を思ひやりて、勝手口より怕々《こは/″\》のぞけば、誰れぞ來しかと竈の前に泣き伏したるお峰が、涙をかくして見出せば此子、おゝ宜く來たとも言はれぬ仕義を何とせん、姉さま這入つても叱かられはしませぬか、約束の物は貰つて行かれますか、旦那や御新造に宜くお禮を申して來いと父さんが言ひましたと、子細を知らねば喜び顏つらや、まづ/\待つて下され、少し用もあればと馳せ行きて内外《うちと》を見廻せば、孃さまがたは庭に出て追羽子《おひはご》に餘念なく、小僧どのはまだお使ひより歸らず、お針は二階にてしかも聾なれば子細なし、若旦那はと見ればお居間の炬燵に今ぞ夢の眞最中《まつたゞなか》、拜みまする神さま佛さま、私は惡人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、罰をお當てなさらば私一人、遣ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお免《ゆる》しなさりませ、勿躰なけれど此金ぬすまして下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみし後は夢とも現とも知らず、三之助に渡して歸したる始終を、見し人なしと思へるは愚かや。
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その日も暮れ近く旦那つりより惠比須《ゑびす》がほして歸らるれば、御新造も續いて、安産の喜びに送りの車夫《もの》にまで愛想よく、今宵を仕舞へば又見舞ひまする、明日は早くに妹共の誰れなりとも、一人は必らず手傳はすると言ふて下され、さてさて御苦勞と蝋燭代などを遣りて、やれ忙がしや誰れぞ暇な身躰を片身かりたき物、お峰小松菜はゆでゝ置いたか、數の子は洗つたか、大旦那はお歸りに成つたか、若旦那はと、これは小聲に、まだと聞いて額に皺を寄せぬ。
石之助其夜はおとなしく、新年《はる》は明日よりの三ヶ日なりとも、我が家にて祝ふべき筈ながら御存じの締りなし、堅くるしき袴づれに挨拶も面倒、意見も實は聞あきたり、親類の顏に美くしきも無ければ見たしと思ふ念もなく、裏屋の友達がもとに今宵約束も御座れば、一先お暇として何れ春永《はるなが》に頂戴の數々は願ひまする、折からお目出度矢先、お歳暮には何ほど下さりますかと、朝より寢込みて父の歸りを待ちしは此金《これ》なり、子は三界の首械《くびかせ》といへど、まこと放蕩《のら》を子に持つ親ばかり不幸なるは無し、切られぬ縁の血筋といへば有るほどの惡戲を盡して瓦解《ぐわかい》の曉に落こむは此淵、知らぬと言ひても世間のゆるさねば、家の名をしく我が顏はづかしきに惜しき倉庫《くら》をも開くぞかし、それを見込みて石之助、今宵を期限の借金が御座る、人の受けに立ちて判を爲たるもあれば、花見のむしろに狂風一陣、破落戸《ごろつき》仲間に遣る物を遣らねば此納まりむづかしく、我れは詮方なけれどお名前に申わけなしなどゝ、つまりは此金《これ》の欲しと聞えぬ。母は大方かゝる事と今朝よりの懸念うたがひなく、幾金《いくら》とねだるか、ぬるき旦那どのゝ處置はがゆしと思へど、我れも口にては勝がたき石之助の辯に、お峰を泣かせし今朝とは變りて父が顏色いかにとばかり、折々見るや尻目おそろし、父は靜かに金庫の間へ立ちしが頓て五十圓束一つ持ち來て、これは貴樣に遣るではなし、まだ縁づかぬ妹どもが不憫、姉が良人の顏にもかゝる、此山村は代々堅氣一方に正直律義を眞向にして、惡い風説《うはさ》を立てられた事も無き筈を、天魔の生れがはりか貴樣といふ惡者《わる》の出來て、無き餘りの無分別に人の懷でも覗うやうにならば、恥は我が一代にとゞまらず、重しといふとも身代は二の次、親兄弟に恥を見するな、貴樣にいふとも甲斐は無けれど尋常《なみ/\》ならば山村の若旦那とて、入らぬ世間に惡評もうけず、我が代りの年禮に少しの勞をも助くる筈を、六十に近き親に泣きを見するは罰あたりで無きか、子供の時には本の少しものぞいた奴、何故《なぜ》これが分りをらぬ、さあ行け、歸れ、何處へでも歸れ、此家に恥は見するなとて父は奧深く這入りて、金は石之助が懷中《ふところ》に入りぬ。
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お母樣御機嫌よう好い新年をお迎ひなされませ、左樣ならば參りますと、暇乞わざとうやうやしく、お峰下駄を直せ、お玄關からお歸りでは無いお出かけだぞと圖分《づぶ》/\しく大手を振りて、行先は何處、父が涕《なみだ》は一夜の騷ぎに夢とやならん、持つまじきは放蕩《のら》息子、持つまじきは放蕩を仕立る繼母ぞかし。鹽花こそふらね跡は一まづ掃き出して、若旦那退散のよろこび、金は惜しけれど見る目も憎ければ家に居らぬは上々なり、何うすれば彼のやうに圖太くなられるか、あの子を生んだ母さんの顏が見たい、と御新造例に依つて毒舌をみがきぬ。お峰は此出來事も何として耳に入るべき、犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻《さつき》の仕業はと今更夢路を辿りて、おもへば此事あらはれずして濟むべきや、萬が中なる一枚とても數ふれば目の前なるを、願ひの高に相應の員數手近の處になく成しとあらば
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