雪の日
樋口一葉

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蝴蝶《(こてふ)》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)父祖累代|墳墓《みはか》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](完)

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)今一[#(ト)]勝負

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちら/\
−−

 見渡すかぎり地は銀沙を敷きて、舞ふや蝴蝶《(こてふ)》の羽《(は)》そで軽く、枯木も春の六花《(りくくわ)》の眺めを、世にある人は歌にも詠み詩にも作り、月花に並べて称《(たた)》ゆらん浦山《(うらやま)》しさよ、あはれ忘れがたき昔しを思へば、降りに降る雪くちをしく悲しく、悔《(くい)》の八千度《(やちたび)》その甲斐もなけれど、勿躰《(もつたい)》なや父祖累代|墳墓《みはか》の地を捨てゝ、養育の恩ふかき伯母君にも背《(そむ)》き、我が名の珠に恥かしき今日《けふ》、親は瑕《(きず)》なかれとこそ名づけ給ひけめ、瓦に劣る世を経《(へ)》よとは思《(おぼ)》しも置かじを、そもや谷川の水おちて流がれて、清からぬ身に成り終りし、其《(その)》あやまちは幼気《おさなぎ》の、迷ひは我れか、媒《(なかだち)》は過ぎし雪の日ぞかし。
 我が故郷は某の山里、草ぶかき小村なり、我が薄井《うすゐ》の家は土地に聞えし名家にて、身は其《(その)》一つぶもの成りしも、不幸は父母はやく亡《(う)》せて、他家《ほか》に嫁ぎし伯母の是れも良人《(をつと)》を失なひたるが、立帰りて我をば生《(おほ)》したて給ひにき、さりながら三歳といふより手しほに懸け給へば、我れを見ること真実《まこと》の子の如く、蝶花の愛|親《おや》といふ共《(とも)》これには過ぎまじく、七歳よりぞ手習ひ学問の師を撰《(え)》らみて、糸竹《(いとたけ)》の芸は御身づから心を尽くし給ひき。扨《(さて)》もたつ年に関守なく、腰|揚《あげ》とれて細眉つくり、幅びろの帯うれしと締《し》めしも、今にして思へば其頃の愚かさ、都乙女の利発には比《(く)》らぶべくも非らず、姿ばかりは年齢ほどに延びたれど、男女の差別なきばかり幼なくて、何ごとの憂きもなく思慮もなく明し暮らす十五の冬、我れさへ知らぬ心の色を何方《(いづこ)》の誰れか見とめけん、吹く風つたへて伯母君の耳にも入りしは、これや生れて初めての、仇名《(あだな)》ぐさ恋すてふ風説なりけり。
 世は誤《あやまり》の世なるかも、無き名とり川波かけ衣、ぬれにし袖の相手といふは、桂木一郎とて我が通学せし学校の師なり、東京の人なりとて容貌《みめ》うるはしく、心やさしければ生徒なつきて、桂木先生と誰れも褒めしが、下宿は十町ばかり我が家の北に、法正寺と呼ぶ寺の離室《はなれ》を仮《(かり)》ずみなりけり、幼なきより教へを受くれば、習慣《ならはし》うせがたく我を愛し給ふこと人に越えて、折ふしは我が家をも訪ひ又下宿にも伴なひて、おもしろき物がたりの中に様々教へを含くめつ、さながら妹の如くもてなし給へば、同胞《(はらから)》なき身の我れも嬉しく、学校にての肩身も広かりしが、今はた思へば実《げ》に人目には怪しかりけん、よしや二人が心は行水《(ゆくみづ)》の色なくとも、結《ゆ》ふや嶋田髷これも小児《こども》ならぬに、師は三十に三つあまり、七歳にしてと書物の上には学びたるを、忘れ忘られて睦みけん愚かさ。
 見る目は人の咎《(とが)》にして、有るまじき事と思ひながらも、立ちし浮名の消ゆる時なくば、可惜《あたら》白玉の瑕《きず》に成りて、其身一生の不幸のみか、あれ見よ伯母そだてにて投げやりなれば、薄井の娘が不品行《ふしだら》さ、両親あれば彼《(あ)》の様《(やう)》にも成らじ物と、云ひたきは人の口ぞかし、思ふも涙は其方《そち》が母、臨終《いまは》の枕に我れを拝がみて。姉様お願《(ねがひ)》は珠が事をと。幽《(かす)》かに言ひし一言あはれ千万無量の思ひを籠めて、まこと闇路に迷ひぬべき事なるを、引受けし我れ其甲斐《(そのかひ)》もなく、世の嗤笑《ものわらひ》に為しも終らば、第一は亡き妹に対し我が薄井の家名に対し、伯母が身は抑《(そもそ)》も何とすべき。と御声ひくゝ四壁《あたり》を憚りて、口数すくなき伯母君が思《(おぼ)》し合《(あ)》はすることありてか、しみじみと諭《(さと)》し給ひき、我れ初めは一向《ひたすら》夢の様に迷ひて何ごとゝも思ひ分かざりしが、漸々《(やうやう)》伯母君の詞するどく。よく聞けよお珠、桂木様は其方を愛で給ふならん、其方も又慕はしかるべし、されども此処に法《きまり》ありて、我が薄井の家には昔しより他郷の人と縁を組まず、況《(まし)》てや如何に学問は長じ
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
樋口 一葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング