給ふとも、桂木様は何者の子何者の種とも知らぬを、門閥家《いゑがら》なる我が薄井の聟とも言ひがたく嫁にも遣《(や)》りがたし、よし恋にても然《し》かぞかし、無き名なりせば猶《(なほ)》さらのこと、今よりは構へて往来《(ゆきき)》もし給ふな、稽古もいらぬ事なり、其方大切なればこそお師匠様と追従《(ついしよう)》もしたれ、益《(えき)》も無き他人を珍重には非らず、年来《としごろ》美事に育だて上げて、人にも褒められ我れも誇りし物を、口惜しき濡《(ぬ)》れ衣《(ぎぬ)》きせられしは彼《(か)》の人ゆゑなり、今までは今までとして、以来《これより》は断然《ふつつり》と行ひを改ため、其方が名をも雪《(そそ)》ぎ我が心をも安めくれよ、兎角《(とかく)》に其方が仇は彼の人なれば、家を思ひ伯母を思はゞ、桂木とも思《(おぼ)》すな一郎とも思すな、彼の門《(かど)》すぎる共《(とも)》寄り給ふな。と畳みかけて仰《(おほ)》する時我が腸《(はらわた)》は断《(た)》ゆる斗《(ばかり)》に成りて、何の涙ぞ睚《(まぶた)》に堪へがたく、袖につゝみて音《(ね)》に泣きしや幾時《(いくとき)》。
口惜しかりしなり其内心の、いかに世の人とり沙汰うるさく一村|挙《こぞ》りて我れを捨つるとも、育て給ひし伯母君の眼に我が清濁は見ゆらんものを、汚《けが》れたりとや思す恨らめしの御詞、師の君とても昨日今日の交りならねば、正しき品行は御覧じ知る筈《(はず)》を、誰が讒言《さかしら》に動かされてか打捨て給ふ情なさよ、成らば此胸かきさばきても身の潔白の顕《(あら)》はしたやと哭きしが、其心の底何者の潜みけん、駒《こま》の狂ひに手綱の術《(すべ)》も知らざりしなり。
小簾《(をす)》のすきかげ隔てといへば、一重ばかりも疾《(や)》ましきを、此処十町の間に人目の関きびしく成れば、頃は木がらしの風に付けても、散りかふ紅葉のさま浦山しく、行くは何処《どこ》までと遠く詠《(なが)》むれば、見ゆる森かげ我を招くかも、彼の村外れは師の君のと、住居のさま面かげに浮かんで、夕暮ひゞく法正寺の鐘の音かなしく、さしも心は空に通へど流石《(さすが)》に戒しめ重ければ、足《あし》は其方に向けも得せず、せめては師の君訪ひ来ませと待てど、立つ名は此処にのみならで、憚りあればにや音信《(おとづれ)》もなく、と絶《(だ)》えし中に千秋を重ねて、万代《(よろづよ)》いわふ新玉《(あらたま)》の、歳たちかへつて七日の日|来《(きた)》りき、伯母君は隣村の親族がり年始の礼にと趣き給ひしが、朝より曇り勝の空いや暗らく成るまゝに、吹く風絶へたれど寒さ骨にしみて、引入るばかり物心ぼそく不図《(ふと)》ながむる空に白き物ちら/\、扨《(さて)》こそ雪に成りぬるなれ、伯母様さぞや寒からんと炬燵《(こたつ)》のもとに思ひやれば、いとど降る雪|用捨《(ようしや)》なく綿をなげて、時の間に隠くれけり庭も籬《(まがき)》も、我が肘《(ひぢ)》かけ窓ほそく開らけば一目に見ゆる裏の耕地の、田もかくれぬ畑もかくれぬ、日毎に眺むる彼の森も空と同一《ひとつ》の色に成りぬ、あゝ師の君はと是れや抑々《(そもそも)》まよひなりけり。
禍《(わざは)》ひの神といふ者もしあらば、正《(まさ)》しく我身さそはれしなり、此時の心何を思ひけん、善《(よし)》とも知らず悪《(あ)》しとも知らず、唯懐かしの念に迫まられて身は前後無差別に、免《(の)》がれ出《(いで)》しなり薄井の家を。
是れや名残と思はねば馴れし軒ばを見も返へらず、心いそぎて庭口を出《(いで)》しに、嬢様この雪ふりに何処《(いづこ)》へとて、お傘をも持たずにかと驚ろかせしは、作男の平助とて老実《まめやか》に愚かなる男なりし、伯母様のお迎ひにと偽れば、否や今宵はお泊りなるべし、是非お迎ひにとならば老僕《おやぢ》が参らん、先《(まづ)》待給へと止めらるゝ憎くさ、真実《まこと》は此雪に宜《よ》くこそと賞められたく、是非に我が身行きたければ、其方は知らぬ顔にて居よかしと言ふに、取《(とり)》しめなく高笑ひして、お子達は扨らちも無きもの、さらば傘を持給へとて、其身の持ちしを我れに渡しつ、転ろばぬ様に行き給へと言ひけり、由縁《(ゆかり)》あれば武蔵野の原こひしきならひ、此一[#(ト)]言さへ思《(おも)》ひ出《(いで)》らるゝを、無情《つれなか》かりしも我が為、厳しかりしも我が為、末《すゑ》宜《よ》かれとて尽くし給ひしを、思ふも勿躰なきは伯母君のことなり。
斯《(か)》くまでに師は恋しかりしかど、夢さら此人を良人《つま》と呼びて、共に他郷の地を踏まんとは、かけても思ひ寄らざりしを、行方《(ゆくかた)》なしや迷ひ、窓の呉竹《(くれたけ)》ふる雪に心|下折《したを》れて我れも人も、罪は誠の罪に成りぬ、我が
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