れ可愛《かあい》し、いかなる夢をか見つる。乳まいらせん」と懐《ふところ》あくれば、笑《え》みてさぐるも憎くからず、「勿躰《もつたい》なや、この子といふ可愛《かあい》きもあり。此子《これ》が為《ため》、我が為、不自由あらせじ、憂き事のなかれ、少しは余裕もあれかしとて、朝は人より早く起き、夜《よ》はこの通り更けての霜に寒さを堪《こら》へて、『袖《そで》よ、今の苦労は愁《つ》らくとも、暫時《しばし》の辛棒《しんぼう》ぞしのべかし。やがて伍長《ごちやう》の肩書も持たば、鍛工場《たんこうじやう》の取締りとも言はれなば、家は今少し広く、小女《こおんな》の走り使ひを置きて、そのかよわき身に水は汲《く》まさじ。我れを腑甲斐《ふがひ》なしと思ふな。腕には職あり、身は健かなるに、いつまでかくてはあらぬ物を』と口癖《くちぐせ》に仰せらるゝは、何所《どこ》やら我が心の顔に出でゝ、卑しむ色の見えけるにや。恐ろしや、この大恩の良人《おつと》に然《さ》る心を持ちて、仮にもその色の顕《あら》はれもせば。
 父の一昨年《おとゝし》うせたる時も、母の去年うせたる時も、心からの介抱に夜《よ》るも帯を解き給はず、咳《せ》き入
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