て甲斐《かひ》なき御玉章《おんたまづさ》に勿躰《もつたい》なき筆をや染め給ふ。
 幾度《いくたび》幾通《いくつう》の御文《おんふみ》を拝見だにせぬ我れ、いかばかり憎くしと思《おぼ》しめすらん。拝《はい》さばこの胸《むね》寸断になりて、常の決心の消えうせん覚束《おぼつか》なさ。ゆるし給へ、我れはいかばかり憎くき物に覚《おぼ》しめされて、物知らぬ女子《をなご》とさげすみ給ふも厭《いと》はじ。我れはかゝる果敢《はか》なき運を持ちてこの世に生れたるなれば、殿が憎くしみに逢《あ》ふべきほどの果敢なき運を持ちて、この世に生れたるなれば、ゆるし給へ、不貞の女子《をなご》に計《はから》はせさせ給ふな、殿。
 卑賤《ひせん》にそだちたる我身《わがみ》なれば、始《はじめ》よりこの以上《うへ》を見も知らで、世間は裏屋に限れる物と定《さだ》め、我家《わがや》のほかに天地のなしと思はゞ、はかなき思ひに胸も燃えじを、暫時《しばし》がほども交《まじは》りし社会は夢に天上に遊べると同じく、今さらに思ひやるも程とほし。身は桜町家《さくらまちけ》に一年《いちねん》幾度《いくど》の出替り、小間使《こまづかひ》といへば人らし
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