琴の音
樋口一葉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)此処《(ここ)》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|一《(ひと)》たび

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]処《(そこ)》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もや/\
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   (上)

 空に月日のかはる光りなく、春さく花のゝどけさは浮世万人おなじかるべきを、梢のあらし此処《(ここ)》にばかり騒ぐか、あはれ罪なき身ひとつを枝葉ちりちりの不運に、むごや十四年が春秋を雨にうたれ風にふかれ、わづかに残る玉の緒の我れとくやしき境界にたゞよふ子あり。
 母は此《(この)》子が四つの歳、みづから家を出でゝ我れ一人苦をのがれんとにもあらねど、かたむきゆく家運のかへし難きを知る実家の親々が、斯《(か)》く甲斐性《(かひしやう)》なき男に一生をまかせて、涙のうちに送らせん事いとほし、乳房の別れの愁《(つ)》らしとても、子は只《(ただ)》一人なるぞかしと、分別らしき異見を女子《(をなご)》ごゝろの浅ましき耳にさゝやかれて、良人《(をつと)》には心の残るべきやうもあらざりしかど、我が子の可愛きに引かれては、此子の親なる人をかゝる中に捨てゝ、我が立さらん後はと、流石《(さすが)》に血をはく思ひもありしが、親々の意見は漸《(やうや)》く義理の様《(やう)》にからまりて、弱き心のをしきらんに難く、霜ばしら今たふれぬべきを知りつゝ、家も此子も、此子の親をも捨てゝ出でぬ。
 父は一人ゆきたることもあり、此子を抱きて行きたることもあり、これを突きつけて戻りたることもあり、我れは此《(この)》まゝ朽《(くち)》はてぬとも、せめては此子を世に出したきに、いかにもして今|一《(ひと)》たび戻りくれよ、長くとには非ず今五年がほど、これに物ごゝろのつきぬべきまでと、頼みつすかしつ歎《(な)》げきけるが、さりとも子故に闇なるは母親の常ぞ、やがては恋しさに堪えがたく、我れと佗《(わび)》して帰りぬべきものをと覚束《(おぼつか)》なきを頼みて、十五日は如何に、二十日は如何に、今日こそは明日こそはと待つ日|空《(むな)》しく過ぎて、はては尋ね行きたりとて、面《(おもて)》を合はする事もなく、乳母にや出《(いで)》けん、人の妻にや成りけん、百年の契りは誠に空しくなりぬ。
 斯《(か)》くて半年を経たりし後は、父もむかしの父に非ずなりぬ、見かぎりて出《(いで)》にし妻を、あはれ賢こしと世の人ほめものにして、打《(うち)》すてられし親子の身に哀れをかくる人は少なかりき、夫《(そ)》れも道理、胸にたゝまるもや/\の雲の、しばし晴るゝはこれぞとばかり、飲むほどに酔ふほどに、人の本性はいよいよ暗くなりて、つのりゆく我意《(がい)》の何処《(いづこ)》にか容《(い)》れらるべき、其年《(そのとし)》の師走には親子が身二つを包むものも無く、ましてや雨露をしのがん軒もなく成りぬ、されども父の有けるほどは、頼む大樹のかげと仰ぎて、よしや木ちんの宿に蒲団はうすくとも、温かき情の身にしみし事もありしを、夫《(それ)》すら十歳と指をるほどもなく、一とせ何やらの祝ひに或る富豪《ものもち》の、かゞみを抜いていざと並べし振舞《(ふるまひ)》の酒を、うまし天の美禄、これを栞《(しを)》りに我れも極楽へと心にや定めけん、飢へたる腹にしたゝかものして、帰るや御濠の松の下かげ、世にあさましき終りを為しける後は、来よかし此処へ、我れ拾ひあげて人にせんと招くもなければ、我れから願ひて人に成らん望みもなく、はじめは浮世に父母ある人うらやましく、我れも一人は母ありけり、今は何処《(いづこ)》に如何なることをしてと、そゞろに恋しきこともありしが、父が終りの悲しきを見るにも、我が渡辺の家の末をおもふにも、母が処業《しわざ》は悪魔に似たりとさへ恨まれける。
 父は無きか、母は如何にと問はるゝ毎《(ごと)》に、袖のぬれしは昔しなりけり、浮世に情なく人の心に誠なきものと思ひさだめてよりは、生中《なまなか》あはれをかくる人も、我れを嘲《(あざ)》けるやうに覚えて面《(つら)》にくし、いでや、つらからば一筋につらかれ、とてもかくても憂身《(うきみ)》のはてはとねぢけゆく心に、神も仏も敵とおもへば、恨みは誰れに訴へん、漸々《(やうやう)》尋常《なみ》ならぬ道に尋常《なみ》ならぬ思ひを馳せけり。
 おどろに乱れし髪のひまより、人を射るやうなる眼のきらきらと光るほかは、垢《あか》にまみれし面《(おも)》かげの、何処《(いづこ)》にはいかならん好《(よ
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