)》き処ありとも、凡人《たゞ(びと)》の目に好しと見ゆべきかは、恐ろしく気味悪く油断ならぬ小僧と指さゝるゝはては、警察にさへ睨まれて、此処の祭礼かしこの縁日、人山きづくが中に忌《(いま)》はしき疑《うたがひ》を受けつ、口をしや剪児《すり》よ盗人と万人にわめかれし事もありき。
 人の眼はくもりたるものにて、耳は千里の外までも聞くか、あやまり伝へたる事は再度きえず、渡辺の金吾は誠の盗賊《もの》に成りぬ、やがては明治の何と肩がきのつくべきほど、おそろしがらるゝ身かへりて恐ろしく、此処を離れて知らぬ土地に走らんと思ひたる事もあり、恨みに堪えかねては死なばやと思ひたる事もあり、幾度水のおもてに臨みて、これを限りと眺めたる事もありしが、易きに似て難きものは死なりけり。
 捨てはてし身にも猶《(なほ)》衣食のわづらひあれば、昼は※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]処《(そこ)》となくさまよひて何となく使はれ、夜は一処不住の宿りに、かくても夢は結びつゝ、日一日とたゞよひにたゞよひて、過《(すぐ)》しゆくほどに、脊たけと共にのびゆくは、ねじけたる心なるべし。

    (下)

 御行《(おぎやう)》の松に吹《(ふく)》かぜ音さびて、根岸|田甫《(たんぼ)》に晩稲《おくて》かりほす頃、あのあたりに森江しづと呼ぶ女あるじの家を、うさんらしき乞食小僧の目にかけつゝ、怪しげなる素振《(そぶり)》あるよし、婢女《(はしため)》ども気味わるがりて※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《(ささや)》き合ひしが、門の扉の明《(あけ)》くれに用心するまでもなく、垣に枝《(し)》だれし柿の実ひとつ、事もなくして一月あまりも過ぎぬるに、何時《(いつ)》となく忘れて噂も出ず成《(なり)》しが、主《(あるじ)》の女が敏《(さと)》き耳には、少しあやしと聞かるゝ事あり、秋雨しと/\と降りて物あはれなる夜、ともし火のもとに独り手馴れの琴を友として、あはれに淋しき調べを弄《(もてあそ)》びつゝ、上野の森に聞えいづる鐘の、さりとは更けぬるかなと、さしおきて聞けば、軒ばを伝ふ雨しだりのほかに、梢をゆする秋風の外に、物のけはいの聞ゆる様なること度《(たび)》かさなりぬ。
 軒ばに高き一もと松、誰れに操の独栖《ひとりずみ》ぞと問はゞ、斯道《これ》にと答へんつま琴の優しき音色に一身を投げ入れて、思ひをひそめしは幾とせか取る年は十九、姿は風にもたへぬ柳の糸の、細々と弱げなれども、爪箱とりて居ずまゐを改たむる時は、塵のうきよの紛雑《みだれ》も何ぞ、松風かよふ糸の上には、山姫きたりて手やそふらん、夢も現《(うつつ)》も此うちにとほゝ笑みて、雨にも風にも、はたゝめく雷電にも、悠然として余念なし。
 頃は神無月はつ霜この頃ぞ降りて、紅葉の上に照る月の、誰が砥《(と)》にかけて磨《(みが)》きいだしけん、老女が化粧《(けはひ)》のたとへは凄し、天下一面くもりなき影の、照らすらん大廈《(たいか)》も高楼も、破屋《わらや》の板間の犬の臥床《(ふしど)》も、さては埋《(う)》もれ水《(みづ)》人に捨てられて、蘆のかれ葉に霜のみ冴ゆる古宅の池も、筧《(かけひ)》のおとなひ心細き山した庵《(いほ)》も、田のもの案山子《(かがし)》も小溝の流れも、須磨も明石も松島も、ひとつ光りのうちに包みて、清きは清きにしたがひ、濁れるは濁れるまに/\、八面玲瓏一点無私のおもかげに添ひて、澄《(すみ)》のぼる琴のね何処までゆくらん、うつくしく面白く、清く尊く、さながら天上の楽にも似たりけり。
 お静が琴のねは此月此日うき世に人一人生みぬ、春秋十四年雨つゆに打たれて、ねぢけゆく心は巌のやうにかたく、射る矢も此処《(ここ)》にたちがたき身の、果《(はて)》は臭骸《(しうがい)》を野山にさらして、父が末路の哀れやまなぶらん、さらずば悪名を路傍につたへて、腰に鎖のあさましき世や送るらん、さても心の奥にひそまりし優しさは、三更月下の琴声に和して、こぼれ初《(そ)》めぬる涙、露の玉か、玉ならば趙氏が城のいくつにも替へがたし、恋か情か、其人の姿をも知らざりき、わづかに洩れ出る柴がきごしの声に、うれしといふ事も覚えぬ、恥かしさも知りぬ、かねては悪魔と恨らみたる母の懐かしさゝへ身にしみて、金吾は今さら此世のすて難きを知りぬ、月はいよ/\冴ゆる夜の垣の菊の香たもとに満ちて、吹《ふ》くや夜あらし心の雲を払らへば、又かきたつる琴のねの、あはれ百年の友とや成るらん、百年の悶へをや残すらん、金吾はこれより百花爛※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]の世にいでぬ



底本:「新日本古典文学大系 明治編 24 樋口一葉集」岩波書店
   2001(平成13)年10月15日第1刷発行
初出:「文学界 第十二号」
   1893(明治26)
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