わかれ道
樋口一葉
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お京《きやう》さん
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一人|娘《ご》で
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)こと/\
−−
上
お京《きやう》さん居ますかと窓の戸の外に來て、こと/\と羽目を敲《たゝ》く音のするに、誰れだえ、もう寐て仕舞つたから明日來てお呉れと嘘を言へば、寐たつて宜いやね、起きて明けてお呉んなさい、傘屋の吉だよ、己《お》れだよと少し高く言へば、嫌な子だね此樣な遲くに何を言ひに來たか、又お餅《かちん》のおねだりか、と笑つて、今あけるよ少時《しばらく》辛棒おしと言ひながら、仕立かけの縫物に針どめして立つは年頃二十餘りの意氣な女、多い髮の毛を忙しい折からとて結び髮にして、少し長めな八丈の前だれ、お召の臺なしな半天を着て、急ぎ足に沓脱《くつぬぎ》へ下りて格子戸に添ひし雨戸を明くれば、お氣の毒さまと言ひながらずつと這入るは一寸法師《いつすんぼし》と仇名のある町内の暴れ者、傘屋の吉とて持て餘しの小僧なり、年は十六なれども不圖見る處は一か二か、肩幅せばく顏小さく、目鼻だちはきり/\と利口らしけれど何《いか》にも脊の低くければ人嘲けりて仇名はつけゝる。御免なさい、と火鉢の傍へづか/\と行けば、御餅を燒くには火が足らないよ、臺處の火消壺から消し炭を持つて來てお前が勝手に燒いてお喰べ、私は今夜中に此れ一枚《ひとつ》を上げねば成らぬ、角の質屋の旦那どのが御年始着だからとて針を取れば、吉はふゝんと言つて彼の兀頭《はげあたま》には惜しい物だ、御初穗《おはつう》を我《お》れでも着て遣らうかと言へば、馬鹿をお言ひで無い人のお初穗を着ると出世が出來ないと言ふでは無いか、今つから延びる事が出來なくては仕方が無い、其樣な事を他處の家でもしては不用《いけない》よと氣を付けるに、己れなんぞ御出世は願はないのだから他人の物だらうが何だらうが着かぶつて遣るだけが徳さ、お前さん何時か左樣言つたね、運が向く時に成ると己れに糸織の着物をこしらへて呉れるつて、本當に調《こしら》へて呉れるかえと眞面目だつて言へば、夫れは調らへて上げられるやうならお目出度のだもの喜んで調らへるがね、私が姿を見てお呉れ、此樣な容躰で人さまの仕事をして居る境界では無からうか、まあ夢のやうな約束さとて笑つて居れば、いゝやな夫れは、出來ない時に調らへて呉れとは言は無い、お前さんに運の向いた時の事さ、まあ其樣な約束でもして喜ばして置いてお呉れ、此樣な野郎が糸織ぞろへを冠つた處がをかしくも無いけれどもと淋しさうな笑顏をすれば、そんなら吉ちやんお前が出世の時は私にもしてお呉れか、其約束も極めて置きたいねと微笑んで言へば、其《そい》つはいけない、己れは何うしても出世なんぞは爲ないのだから。何故/\。何故でもしない、誰れが來て無理やりに手を取つて引上げても己れは此處に斯うして居るのが好いのだ、傘屋の油引きが一番好いのだ、何うで盲目縞の筒袖に三尺を脊負つて産《で》て來たのだらうから、澁《しぶ》を買ひに行く時かすり[#「かすり」に傍点]でも取つて吹矢《ふきや》の一本も當りを取るのが好い運さ、お前さんなぞは以前《もと》が立派な人だと言ふから今に上等の運が馬車に乘つて迎ひに來やすのさ、だけれどもお妾に成ると言ふ謎では無いぜ、惡く取つて怒つてお呉んなさるな、と火なぶりをしながら身の上を歎くに、左樣さ馬車の代りに火の車でも來るであらう、隨分胸の燃える事が有るからね、とお京は尺《ものさし》を杖に振返りて吉三が顏を守りぬ。
例《いつも》の如く臺處から炭を持出して、お前は喰ひなさらないかと聞けば、いゝゑ、とお京の頭をふるに、では己ればかり御馳走さまに成らうかな、本當に自家《うち》の吝嗇《けちん》ぼうめ八釜しい小言ばかり言やがつて、人を使ふ法をも知りやがらない、死んだお老婆《ばあ》さんは彼んなのでは無かつたけれど、今度の奴等と來たら一人として話せるのは無い、お京さんお前は自家《うち》の半次さんを好きか、隨分厭味に出來あがつて、いゝ氣の骨頂の奴では無いか、己れは親方の息子だけれど彼奴ばかりは何うしても主人とは思はれない番ごと喧嘩をして遣り込めてやるのだが隨分おもしろいよと話しながら、鐵網《かなあみ》の上へ餅をのせて、おゝ熱々と指先を吹いてかゝりぬ。
己れは何うもお前さんの事が他人のやうに思はれぬは何ういふ物であらう、お京さんお前は弟といふを持つた事は無いのかと問はれて、私は一人|娘《ご》で同胞《きやうだい》なしだから弟にも妹にも持つた事は一度も無いと言ふ、左樣かなあ、夫れでは矢張何でも無いのだらう、何處からか斯うお前のやうな人が己れの眞身の姉さんだと
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
樋口 一葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング