か言つて出て來たら何んなに嬉しいか、首つ玉へ噛り付いて己れは夫れ限り往生しても喜ぶのだが、本當に己れは木の股からでも出て來たのか、遂ひしか親類らしい者に逢つた事も無い、夫れだから幾度も幾度も考へては己れは最う一生誰れにも逢ふ事が出來ない位なら今のうち死んで仕舞つた方が氣樂だと考へるがね、夫れでも欲があるから可笑しい、ひよつくり變てこな夢何かを見てね、平常《ふだん》優しい事の一言も言つて呉れる人が母親《おふくろ》や父親《おやぢ》や姉さんや兄さんの樣に思はれて、もう少し生て居たら誰れか本當の事を話して呉れるかと樂しんでね、面白くも無い油引きをやつて居るが己れみたやうな變な物が世間にも有るだらうかねえ、お京さん母親も父親も空つきり當が無いのだよ、親なしで産れて來る子があらうか、己れは何うしても不思議でならない、と燒あがりし餅を兩手でたゝきつゝ例《いつ》も言ふなる心細さを繰返せば、夫れでもお前笹づる錦の守り袋といふ樣な證據は無いのかえ、何か手懸りは有りさうな物だねとお京の言ふを消して、何其樣な氣の利いた物は有りさうにもしない生れると直さま橋の袂の貸赤子に出されたのだなどゝ朋輩の奴等が惡口をいふが、もしかすると左樣かも知れない、夫れなら己れは乞食の子だ、母親《おふくろ》も父親《おやぢ》も乞食かも知れない、表を通る襤褸《ぼろ》を下げた奴が矢張己れが親類まきで毎朝きまつて貰ひに來る跣跋《びつこ》片眼《めつかち》の彼の婆あ何かゞ己れの爲の何に當るか知れはしない、話さないでもお前は大底しつて居るだらうけれど今の傘屋に奉公する前は矢張己れは角兵衞の獅子を冠つて歩いたのだからと打しをれて、お京さん己れが本當に乞食の子ならお前は今までのやうに可愛がつては呉れないだらうか、振向いて見ては呉れまいねと言ふに、串戲をお言ひでないお前が何のやうな人の子で何んな身か夫れは知らないが、何だからとつて嫌やがるも嫌やがらないも言ふ事は無い、お前は平常の氣に似合ぬ情ない事をお言ひだけれど、私が少しもお前の身なら非人でも乞食でも構ひはない、親が無からうが兄弟が何うだらうが身一つ出世をしたらば宜からう、何故其樣な意氣地なしをお言ひだと勵ませば、己れは何うしても駄目だよ、何にも爲やうとも思はない、と下を向いて顏をば見せざりき。

       中

 今は亡《う》せたる傘屋の先代に太つ腹のお松とて一代に身上をあげたる、女相撲のやうな老婆《ばゝ》さま有りき、六年前の冬の事寺參りの歸りに角兵衞の子供を拾ふて來て、いゝよ親方から八釜《やかま》しく言つて來たら其時の事、可愛想に足が痛くて歩かれないと言ふと朋輩の意地惡が置ざりに捨てゝ行つたと言ふ、其樣な處へ歸るに當るものか少《ちつ》とも怕《おつ》かない事は無いから私が家に居なさい、皆も心配する事は無い何の此子位のもの二人や三人、臺所へ板を並べてお飯《まんま》を喰べさせるに文句が入る物か、判證文を取つた奴でも欠落《かけおち》をするもあれば持逃げの吝な奴もある、了簡次第の物だわな、いはゞ馬には乘つて見ろさ、役に立つか立たないか置いて見なけりや知れはせん、お前新網へ歸るが嫌やなら此家《こゝ》を死場と極めて勉強をしなけりやあ成らないよ、しつかり遣つてお呉れと言ひ含められて、吉や/\と夫れよりの丹精今油ひきに、大人三人前を一手に引うけて鼻唄交り遣つて退ける腕を見るもの、流石に眼鏡と亡き老婆《ひと》をほめける。
 恩ある人は二年目に亡せて今の主も内儀樣も息子の半次も氣に喰はぬ者のみなれど、此處を死場と定めたるなれば厭やとて更に何方《いづかた》に行くべき、身は疳癪に筋骨つまつてか人よりは一寸法師一寸法師と誹《そし》らるゝも口惜しきに、吉や手前は親の日に腥《なまぐ》さを喰《やつ》たであらう、ざまを見ろ廻りの廻りの小佛と朋輩の鼻垂れに仕事の上の仇を返されて、鐵拳《かなこぶし》に張たほす勇氣はあれど誠に父母いかなる日に失せて何時を精進日とも心得なき身の、心細き事を思ふては干場の傘のかげに隱くれて大地を枕に仰向《あふの》き臥してはこぼるゝ涙を呑込みぬる悲しさ、四季押とほし油びかりする目くら縞の筒袖を振つて火の玉の樣な子だと町内に怕がられる亂暴も慰むる人なき胸ぐるしさの餘り、假にも優しう言ふて呉れる人のあれば、しがみ附いて取ついて離れがたなき思ひなり。仕事屋のお京は今年の春より此裏へと越して來し物なれど物事に氣才《きさい》の利きて長屋中への交際もよく、大屋なれば傘屋の者へは殊更に愛想を見せ、小僧さん達着る物のほころびでも切れたなら私の家へ持つてお出、お家は御多人數お内儀さんの針もつていらつしやる暇はあるまじ、私は常住仕事|疊紙《たゝう》と首つ引の身なれば本の一針造作は無い、一人住居の相手なしに毎日毎夜さびしくつて暮して居るなれば手すきの時には遊びにも來て下
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
樋口 一葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング